人には、人それぞれの特性がある。その特性を生かす道を自分らしく歩む人生でありたいと願ってきた。私の特性とは何だろうか。物事を自分の頭で考えることにある。また、アイデンティティの意識が高く、自我が強いことが私の特性だと思っている。何事も納得しなければ、気が済まないタイプでもある。特別な才能もなければ、何のスキルもない人間である。このような人間がどう生きていくかが、私の人生のテーマになった。
4年間の大学生活で、自ら歩む人生の道を決めたいと考えた。人生の価値をどう考えるのかは大きな問題である。お金や立身出世に価値を置くことはできないタイプの人間との認識をしていた。出世のために上司に忖度することはできないし、そのような競争はしたくないと考えていた。人に指示されることを好まないし、群れることが嫌いな人間だ。
私は、教育の道を歩むことを選択した。経済的な豊かさを追うつもりはなかった。生活の基盤ができればいいと考えた。その結果、生涯にわたり経済的なゆとりはない人生となったが。現在の教育の世界は、魅力ある職業とは言えない状況になっている。「教育は国家100年の体型」と言われ、教育こそ国家の基盤であり、未来を担う人材を育成するとの長期的視点での考え方にある。教育は未来への投資とも言える。教育理念は、この考え方を具体化したものである。私がかつて勤務していた三島南高校の校訓は「自覚」である。この校訓は、生徒が主体的に学び、自らの人生を切り拓き、地域に貢献する人材に成長することを象徴している。
現在の学習指導要領の3本の柱は、「知識及び技能」「思考力・判断力・表現力」「学びに向かう力・人間性」とある。一言で表現するならば、「主体的に生きる力」の育成である。教育は、理想であるが、理想通りの教育が行われているわけではない。現実社会の影響に左右されているのが、教育の世界の現実と言わざるを得ない。
今の親(息子の世代)は、過保護に思えてならない。子どもに時間とお金をかけることに生きがいを感じているように思える。進学校では、生徒が進学塾に通うのが当たり前になっている。勉強に関しては、学校よりも塾への依存度が強い。進学も塾の偏差値で決まっている。偏差値は、あくまでも手段であって、目的ではない。目的が優先されるべきだ。私が教えていた20年前とは、全く状況が変わっているが、それが時代の変化と言うことだ。正直に言うと、今の時代に教壇に立つ気にはなれない。
昨日から今日にかけて、中学の英文法をまとめたものを修正した。高校の英文法をまとめたものを一緒にUSBに入れて、孫(高1)に渡したいとの思いで作ったが、無駄なことをしたようだ。孫は「使わないかもね」と。やはり、学習は塾に依存している。これでは、主体的に学ぶ力を身に着けることはできないと思うが。
「好きこそものの上手なれ」とある。好きなことは、頑張ることができ、上達が早いことを意味する。好きなことを楽しむことが一番だと言える。その過程の中で、主体的な学びができるのではないか。大谷翔平選手を見ていると、そう思えてならない。野球の才能に恵まれているだけではなく、野球に向かうストイックな努力に敬服している。野球を楽しんでいる姿にすばらしさを感じる。
人生を振り返り、主体的に生きる考え方を持ち続けられたことに納得している。