今日は、広島原爆の日である。年が経つにつれて、戦争の悲惨な歴史への意識が薄れている。高市議員や玉木議員は、日本の安全保障おいて、「国民が血を流す覚悟がいる」との発言をしている。非常に腹立たしく、残念な発言だ。日本国憲法の精神から逸脱している。彼らは、権力を縛る憲法の改正(国民にとっては改悪)することを悲願にしている。戦前への回帰であり、教育勅語を賛美する政治家も少なくない。平和国家としての日本が、最重要視すべきは教育であり、平和のための教育である。

 親の経済的格差が子どもの格差を生み出しているのが、現在の教育の実態である。教育は国の将来への投資である。教育の使命は、子どもの幸福と平和な社会の創造である。

 私自身は、団塊世代による受験競争を経験している。立身出世を価値とする年功序列社会を生きて来た。私は、立身出世にもお金に対しても、大きな価値として捉えることはない生き方をして来た。教育の世界に身を置きながら、既成の価値観に疑問を抱いていた。

 地域トップの進学校で教えた経験はないが、普通の進学校では十数年の経験がある。進学校において、最も重視されるのは、進学実績であり、その実績が学校への評価になる。高校教育の目的が大学進学であり、生徒も東大を筆頭にブランド大学への進学を希望している。大学進学は、あくまでも人生の手段である。「何のために」の目的意識が欠如していると考えるのが私である。多くの教員も生徒も、この目的意識を理解していないのが現状である。このために、偏差値信仰のようなものが存在する。偏差値の高い大学が良い大学と信じ込んでいるが、果たしてそうだろうか。

 日本社会の伝統的価値観は、一流大学に進学し、キャリア官僚・一流会社に就職し、出世競争を勝ち抜く。そうすることが、人生の成功者であり、勝ち組となる。このような自己の利益しか考えない人間を育てることが本来の教育であろうか。教育の目的は、物事を自ら考え、判断し行動する自律的な人間を育て、利他の幸福と平和を求める人間を育てることであると私は考えている。

 学力エリートを育成する教育が、現代の格差社会を作っていると言っても過言ではない。「親の経済力による格差」が顕著な社会になっている。少子化社会での受験競争は、私たち団塊世代の競争とは異なる。大学進学希望者が全入できる時代である。しかし、一流大学への競争は、より激しさを増している。一流大学の進学には、中高一貫教育の学校が実績を上げている。その結果、中学受験がし烈になっている。この受験には、親の経済力の影響が大きい。子どもを学習塾に通わせ、更に個別指導塾にも通わせる親もいるようだ。子どもの学習能力による差ではなく、親の経済力による学力格差が出ているのが現実だ。

 静岡県立の進学校においても、学習塾に通っている生徒が一般的のようだ。私の孫にしても、放課後の部活動⚾の後に塾に通い、帰宅するのは10時過ぎだ。トップの進学校の生徒も同様だと聞いている。現代は、共働き世帯が普通になり、子どもの教育に多くのお金をかけている。時代が変化しているにも関わらず、旧来の価値観が変わっていない。

 先行きが不透明な時代であるが故に、旧来の価値観では対応できない多様な社会へと変化していることを知るべきだ。一人の人間として、課題を解決する「生きる力」を身に着けることこそ大事ではないか。