今日は、私の77歳の誕生日になる。人生の一つの節目でもある。特別な感慨はないが、自らの人生を振り返る良い機会かもしれない。

 戦後に生まれ、団塊の世代と言われ、物が無い貧しさを経験している世代である。物が溢れている世代の人たちには、理解できないだろう。人は、時代を選んで生まれてくることはできない。どの時代に生きることが、人にとっての幸せかはわからない。

「人は環境の動物」と言われる。どんな人であれ、時代環境の影響を避けることはできない。

人間の社会は、時代に関わらず、「競争の原理」が働いている。「少子高齢化」が、社会的大問題になっているが、日本経済が低迷し続け、経済的格差は、ますます拡大している。

 私の世代は、世代人口が多いための競争原理が働いていた。受験戦争を余儀なくされた。今の時代でも、質の違いはあるが、競争は変わらない。現代社会に言えることは、親の経済力が、競争の格差になっていることだ。一流大学に進学するために、中高一貫教育の私学への中学受験が激しい。国立大学も、国立大学法人に移管してからは、国の助成金の削減により、教育及び研究機関としての価値が国際的に低下している。国立と私立の授業料の差もそれほど大きくなくなっている。私の時代は、国公立大学の授業料は、私立大学のおよそ五分の一であった。現在、少子化の故に、多くの大学で定員割れしている。

 私自身は、ある意味で、高校受験で挫折感を味わった。そのために、大学受験へのモチベーションは高かったとも言える。高校生活の半分以上が、大学受験のための生活だった。家の経済力からは、私立大学へ進学することも、受験浪人することも許されなかった。男子が社会で生き抜くためには、一流大学への進学が不可欠となる社会状況であった。まだ、女子の大学進学率は低く、女性は結婚して家庭にいることが望ましいとする価値観の男社会だった。女性の社会進出が当たり前になった現在でも、男社会の本質は、変わっていないと言っても過言ではない。

 私は、一般的な男の価値観である「立身出世」には、疑問を感じていた。私の性格として最も嫌うことは、人に強いられることだ。束縛されない自由と自分らしさを求めることが私の価値観である。反骨心と自立心が強いタイプの人間であり、今でも変わることはない。人の性分は変わることはないのだが。お金や地位を追い求める人生を送りたいとは思っていなかった。終身雇用の時代で、仕事は生活の糧が得られればいいと考えていた。

 世間一般では、役職や社会的地位が上がることが、偉くなることだと考えられている。私から言わせれば、偉くなるのではなく、責任が重くなるということだ。そのような認識に欠けている。利権や私利私欲に走る人間が多いのが現実だ。その典型的な人間が、政治家である。権力を背景にした政治屋が多い。こんな政治家が、偉いと言えるだろうか。偉いとの基準は、人間としての問題ではないか。裏金問題でも、政治への信頼を失っている。政治と金を透明化する政治資金規制法案を作るべきではないか。

 私の人生において、職業選択が大事な問題だった。何の才能も技術もない人間が、自分らしく生きるためにどうすべきか。その自身への問いかけの結果が、高校の教員だった。教員社会の中でも、自分らしく生きることはたやすいことではない。しかし、教員の世界は、サラリーマンの世界とは異なり、自由裁量の部分があった。教育は、自らの考えや生徒指導が求められ、マニュアルのない世界である。現在の教員の多くは、サラリーマン化し個性的な教員が少なくなっているようだ。教員の世界が、管理的な組織に変質している。

 私自身の教員人生に悔いはない。試行錯誤の連続であったが、生徒との触れ合いの中に喜びがあった。このことを一番感じさせてもらった時期が、定年1年前の5年間だった。良い生徒に恵まれていたからこそであるが。教員として「天職」と感じられる人生を送れたことは、本当に幸せであり感謝の思いだ。退職して12年を越えたが、残された人生を楽しみたいと思う。「人生、楽しんだ者勝ち」だ。そのためには、健康であることがすべてである。