この学校での10年間の教員生活を充分に書くことはできない。10年目には、転勤の話しがあった。8年間勤務を終えた時に、転勤希望を考えていたが、教科の教員の構成上、私の役割を継ぐ教員がいなかった。そのために、40代の教員の転勤を要請した。新年度に、2歳年下の教員が移動してきた。このU教員は、後に校長にまで昇任したのだが。これで、年度末には、転勤希望が出せると思っていた。しかし、1歳年下の女子教員が転勤を希望していた。二人の転勤は、教科の教員構成上望ましくないと、勝手に判断していた。その思いとは違い、私の転勤の話しが出て来た。次の赴任校は、御殿場地区とは予想していた。具体的には言われなかったが、小山町の学校と推測できた。自宅からの通勤時間が長いとの理由で断った。
10年目に、前回のブログで書いた3年の男子生徒の担任をすることになった。このことにも理由がある。この学年の1年次と2年次に、副担任として授業を持っていた。担任をしていたTさんが体調不良になり、「相川さんに頼みたい」と言われて引き受けた。Tさんは、私の麻雀仲間だ。彼は、私が2年目の時に転勤してきた。それ以来ずっと同じ学年に所属していた。また、囲碁の仲間でもあった。これが人間関係というものだ。私以外に3年の担任を引き受ける教員はいなかった。その事情はよく理解していた。それがピンチヒッターの所以である。裏話を書くと、Tさんから、2年修了時に、数人の生徒の授業単位の相談があった。「相川さん、何とかならない」と。「わかっている」と答えた。その生徒たちの担任をすることになる。
44歳の時に、御殿場市の学校に転勤した。いわゆる実業高校で、学科改編が行われ、情報システム(工業)、情報ビジネス(商業)、情報デザイン(家政)へと変わる時期に当たった。歴史的には古い学校だ。ここの生徒の学力は、普通と言ってもいい。赴任した時の驚きは、家政科の生徒の中にキャバクラのような女子生徒がいたことだ。赴任2年目が学科改編のスタートだった。情報デザインに変わり、1学年から元の家政科のクラスが1クラスに減った。そのためか、キャバクラのような一部の生徒は入って来なくなった。
この学校では、私が教員の最年長になった。そのために、教科だけではなく、学校運営にも関わることになる。7年間いたが、これほど楽な教員生活はなかった。15~16歳年下の教員とは、教科研究室でよく話しをしていた。赴任同期のA君とは、よく教育雑談をしていた。彼は、東京外語大学卒の優秀な教員だ。言語に関する知識は深いと言える。A君は、私の話に対して「相川節炸裂」とよく言っていた。彼とは、長い時間にわたって会話をした。私の教員生活で、まともな話題で一番長い時間話しができる教員だった。この会話は、楽しかった。翌年、W君が転任してきた。彼とは、ボウリングの付き合いが長く続いた。彼は、私をボウリングの師匠と言っていた。10年以上、彼の投球を見てアドバイスをした。あるタイミングで、飛躍的に向上し、私を抜くレベルになった。この人間関係も楽しかった。彼とは、数年ぶりに、7日(火)に会う予定になった。とても楽しみだ。
この学校では、ぬるま湯につかっているような時間を過ごし、正直、教員としての刺激はなかった。