三島市の学校には、10年間勤務した。振り返ると、大変なことはあったが、楽しい教員生活だった。私のクラスのやんちゃな男子生徒から、「ボス(私)にはさからわない」と言われていた。その生徒たちを何とか卒業させた。彼らは、本当に喜んでいた。離任式の時に、7~8人の男子が、花束を持って学校に来てくれた。「お互いに似合わないな」と言ったが、とても嬉しいことだった。面倒をかけられたが、懐かしい思い出になっている。

 教科の主任として、新任教員の世話係のような役割をした。初任者研修制度の試行として、二人の新任教員の研修担当になった。年間60時間の研修を実施した。教頭が校務を担当し、私が教科を担当した。この件では、組合員の先輩教員から𠮟責を受けた。その教員は、この研修制度に反対していた。私が、この制度に賛成していると誤解していた。教頭に依頼されたので、引き受けただけだった。この学校でも、管理職と組合の間で対立することがあった。私のスタンスは、どちら側でもなかった。学年会議、職員会議においても、生徒の視点から発言してきた。教科についても同じスタンスだった。なかなか、教員の人間関係も難しい。

 人間は感情の動物である。異なる立場で、自己を正当化すれば、対立が生じる。対立からは、何の良い結果を生み出すことはない。お互いにマイナスでしかない。

 この学校での教員の人間関係は、私にとっては良かったと言える。先輩のM教員には、お世話になり、彼の人間関係の中で、他校の教員とも知り合うことになった。麻雀が媒体だったのだが。Mさんのつながりで知り合った教員Yさんが、教頭として赴任してきた。前任のA教頭ともよく話しをしたが、Y教頭とも親しくさせてもらった。同僚との人間関係の中心は、麻雀と言える。忘年会等で、温泉に宿泊しても、温泉に入らずに徹夜になることも度々だった。この学校で知り合った仲間で、今でも高齢者の麻雀をしている。40年来の付き合いになり、月に1~2回の割合で集まり、遊んで楽しんでいる。

 職員室で授業の空き時間に、コーヒーを飲みながら、数人でよく雑談をしていた。職員室での雑談は、この学校で最後になり、教員の横の関係が薄くなる時代へと変化していった。後に転勤した御殿場市の二校では、そのような雰囲気は無くなっていった。古き良き時代だったと言えるかもしれない。バブル崩壊後の社会の変化と大きく関わっている。

 この時代までの教員の既得権益は、教育公務員特例法に基づく研修にあった。「教員は、授業に支障のない限り、所属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる」とある。この法律に基づいて、定期試験の期間中の午後及び夏休みの時に、自宅等(学校外)で教材研究の名目で、自由に研修ができた。外部からは、「先生には、夏休みがあっていいですね」と言われていたのは、この研修による休みのことだ。年次有給休暇を消化するようにとは言われていたが、形式的な研修願いと研修報告ですますことが通常だった。2000年頃から、一般世間の目も厳しくなり、学校も管理的な色彩を帯びるようになった。教員の多忙化が始まった頃と一致している。もう一つの多忙化の大きな要因は、パソコンが普及してきたことにある。便利さが、かえって仕事量の増加へと。現在、教員の仕事のブラック化と言われている。そのために、教員の志願者が減少し、教員の質の低下へとつながっている。