人間関係が希薄化している社会と感じているのは、私だけであろうか。

社会が変化していけば、人の考え方にも変化が起きることは当然のことだ。昭和世代の人と平成世代の人とでは、社会的背景が異なり、価値観も異なることは当然と言える。昭和世代の高齢者は、社会の変化に対応できない人が大部分ではないだろうか。

 生まれ育った環境や社会的経験値が全く異なる人の人間関係は、難しいことは当然である。自身の経験値からなかなか脱却できないのも人の性とも言えるかもしれない。もちろん、私も例外ではない。

 団塊の世代は、「競争社会」の中で生きて来た。その典型的な現象は、「受験競争」と言える。一流大学に入り、一流企業に入社し、出世競争に勝ち残り、定年まで勤めること。また、キャリア官僚として出世の道を歩むことが、一般的な価値観とされてきた。。

 年功序列の終身雇用社会では、組織の秩序が重んじられてきた。上司への「忖度」は当然のこととされていた。上司に気に入られなければ、出世することはできない仕組みになっていた。「人事権」をもつ人が、組織を動かして来た。トップに逆らえば、冷遇される。そのような組織社会での人間関係は、「上下関係」が実に厳しい。イエスマンが生き残っていく。

 私自身は、上下関係による閉鎖的組織を好まない。上司に気に入られたいために、自分の心を殺すような生き方はしたくなかった。強いられることを一番嫌っているタイプの人間だ。どんな組織であれ、一定の制限があることを否定するつもりはない。

 私が時代の変化を大きく感じるようになったのは、コンピュータの発達のために、仕事の量及び質が変化したことにある。この変化が、人間関係の変化に深く関わっている。私の世代の多くが、パソコン操作ができないために、情報社会への変化に対応できていないことも事実である。社会における人間関係についても同じようなことが言える。

 一例として、教員社会においては、職員室での光景が全く変わってしまった。教員同士の会話がされなくなり、それぞれが静かにパソコンに向かい事務的な処理をするようになった。「横のつながり」が無くなっていることに淋しさを感じたことを記憶している。私の定年(2008年)の頃に、そのことを強く感じるようになった。私の世代は、職員室の雑談の中に、人間関係があったと言っても過言ではない。プライベートでの人間関係は、限定的だったが。私の場合のプライベートでの主な人間関係は、麻雀での付き合いだった。「縦の関係」を好まなかったので、後輩に対してもその意識はなかった。忖度ではなく、当たり前の気配りは当然のことと考えていた。その考え方は、人生を通じて変わってはいない。

 最近「ゆるブラック」との言葉を始めて耳にした。若者の「ゆるブラック」による離職が増えているそうだ。ある調査によると、「約7割の若者は、楽で居心地はよいが、自身の成長ができず、収入も上がらない会社を表す“ゆるブラック企業”では働きたくない」と回答した。流動的な社会における「スキル」にも焦りを感じているようだ。仕事上で、指示されたり、教えてもらえない企業には、不安を感じるようだ。ここにも、社会における人間関係が表れていると思われる。「自律できる人間」が育っていないのが、現実の社会と言える。

 根本的には、教育の問題にあると思う。「物事を自分の頭で考え、自分の意思で行動し、その行動に責任を持つ自律した人間」を育てるのが、教育の目的である。人間社会では、いつの時代でも、どんな組織でも、人間関係は不可欠である。人間関係は、「信頼」が何よりも大切なことだ。どこの世界でも、「人」によって決まる。「人間性」に優るものはない。「人間関係」こそ、人間社会の要諦と言える。