デジタルな時代に求められる人間像とは何だろうか。アナログ時代とは人の感覚・感性がかなり異なると感じる。デジタルの世界は、アプリの世界とも言っても差し支えないだろう。端的に言うと、「ビジュアル」の世界とも言えるのではないか。その典型が、インスタグラムではないか。「インスタ映え」との流行語が生まれたが、若者にとっての大きな情報源になっている。昨日のTV番組「マツコの知らない世界」で、「ハッシュタグ」のことが話題になっていた。グーグルによると、「ハッシュタグ」とは、TwitterやInstagram、FacebookなどのSNSで、投稿内のハッシュマーク「#(半角のシャープ)」がついたキーワードのこととある。SNSにおける写真及び動画情報の検索に使われ、若者の文化になっているようだ。そのタグには、ネット用語が多く使われているようで、私たちのようなアナログ世代には、全く理解できない言葉になっている。アナログ世代の文化とデジタル世代の文化の違いは明らかであり、共通理解は実に難しいと感じる。

 自身の経験を振り返ると、パソコンの導入以来、変化が大きくなっている。教育の世界は、典型的なアナログの世界である。人間と人間の直接の触れ合いから成り立っている。成績処理にしても、教員が悩みながら成績評価(絶対的評価)をしてきた。パソコンで成績処理をするようになってからは、オートマチックになり、相対的評価に変化している。「偏差値」(物差し)なる数値評価が、学校評価や進路指導に大きな影響力を持つようになった。本来手段であるべき物が、目的化するような現象になっている。私の世代の進路指導は、生徒個々の将来の希望に対して、対話で行われていた。私の退職時(2008年)には、パソコンに向かってデータを見ながら、機械的な説明をする指導が行われているのが、一般的な光景であった。教員にしても、空き時間にパソコンに向かって事務的な処理をしていた。私個人は、非常に違和感を抱いていた。教員同士の横のつながりがなくなり、雑談から得られる情報が無くなってしまっている。井戸端会議的ものは、無駄ではないと思っている。

 教育の世界で、グローバル化に対応するために、小学校の英語の教科化や情報教育の促進と共に、アクティブラーニング(能動的学習)への転換、大学入試改革が行われつつあるが、何のためにとの「目的」を明確にする必要があると、私は思っている。教育は、人間を育てるのが目的である。この原点を見失ってはならない。デジタル時代に求められる人間像とは、パソコンを道具として使いこなすと共に、一人の人間としての「生きる力」を身につけることだと思う。具体的には、自ら考え(思考力)、判断し(判断力)、発信する能力(発信力)を養うと同時に、他の見方や考え方を受け入れる能力(受容力)を培うことが大事なのではないか。「共生の社会」を目指すにためには、「差別」、「分断」、「排除」を乗り越える努力を続けなければならない。現実的には、不可能にも思えるが、あくまでも理想を持ち、理想に向かって進む理想主義の旗を降ろすべきではない。教育は理想の追求である。

 教育は、人間力の養成であり、啓発である。人間力の啓発は、人間にしかできないことを知るべきである。デジタルを駆使できるアナログ的人間が求められる。デジタルとアナログのバランスが大切だと思う。コロナ禍で証明されてきた事実である。