日本学術会議推薦の6名の「任命拒否」が、メディアを通じて大きな社会的話題になっている。一般には、日本学術会議のことはほとんど知られていない。「日本の科学者の内外に対する代表機関。1949年日本学術会議法により設置。内閣総理大臣の所轄。科学に関する重要事項を審議し、政府に勧告する。人文科学、生命科学、理学・工学の3部から成る。会員210名。」(広辞苑)今回、会員半数の105名の推薦者の内6名の任命が拒否された。任命拒否は、政権の「人事介入」との批判が高まっている。この問題は、読売・日経・産経新聞と朝日・毎日・東京新聞では、報道の仕方が全く違っている。メディアを二分しているかのようだ。学問の自由、思想・信条の自由は、民主主義の基本とも言える。6名の任命拒否の理由を菅総理は説明していない。任命権のある総理は、任命しない理由を説明する責任がある。菅総理は「総合的、俯瞰的な判断」と語っているが、何の説明にもなってはいない。政府関係者からは、日本学術会議の役割に問題があるとの発言がされているが、論点のすり替えであり、任命拒否の問題とは別であり、任命拒否理由には当たらない。
大西元会長は「2014年の内閣人事局発足以降、官邸が人事権限を行使する圧力が強まった。官邸介入は16年から」と証言している。官僚の人事だけではなく、学者への人事介入が行われているということだ。今回の6名は、安保法制・共謀罪法案に反対の意見を述べたとされている。学問の業績に関する判断は、官邸にできることではない。
現在の日本は、まともな議論ができない状況になっている。政権や組織に批判的な言動をすると、人事による「排除」の論理がまかり通っている。「森友・加計問題」に見られた官僚の忖度は、権力への追従以外何物でもない。官僚も政治家も「公僕」であることをあることを忘れてはならない。本来の意味での「国民のための政治」が行われなければならない。政治家は、あくまでも国民の代表であり、主権は国民にある。民意は多様であるが、きちんとした議論をすべきであり、そのプロセスを可視化し、納得できる決定をすべきではないだろうか。「強権的な方向」へと日本が進んでいることを危惧している。戦前に回帰するような政治思想を許すべきではない。日本の右傾化を怖れている、