組織の体質に疑問を感じても、変えるために行動をすることは、実に難しいのが現実である。個人のできることは限られているが、「立場」によってできることは異なる。組織が大きくなると、リベラルな意見に対する風当たりは強く、敵対視されることにもなる。上意下達の組織では、すべて「トップダウン」で決まってしまう。個人の意見や要望が入る余地がないと言える。「前例主義」の組織運営に従っていれば、個々の責任の負担は軽い。公務員及び各種団体に共通してみられる現象である。そのような組織は「既得権益」に固執し、保守的な組織になる。これでは、組織が活性化するはずがない。組織において、個人の存在感があるかどうかが、組織の活性化の判断基準になるのではないか。物事の決定に、「納得と共感」が大事だと思っている。そのためには、決定にいたるまでの「プロセス」が肝心ではないか。プロセスが、密室化され不透明であれば、納得も共感も得られることはない。
私が経験してきたのは、県立高校の教員の世界であり、組織である。教育の目的は、人を教え育てることにあることは言うまでない。教員の考え方の基準は、「生徒のために」あると、42年間の教員生活の間ずっと考えてきたことだ。この視点だけは見失わないようにしてきたつもりだ。「生徒のため」との総論では一致できても、各論では、必ずしも一致するわけではない。「建前と本音」は、教員の世界にも明らかにある。教員は、立場から物を言う傾向性が強い。一例として、進路指導において、「生徒のための」適切な指導が行われているとは言い難い。その中には、学校の名声や教員個人の成果となる本音の部分が隠されている。このことは、主に進学拠点校にみられる傾向と言えるのだが。進学の生徒の成果が、地域社会における学校の評価になる。ここには、「偏差値」信仰のようなものが存在している。有名大学に合格する数で、高校が評価される。生徒にとって、有名大学に入ることだけが、目的と言えるだろうか。将来の希望に適する大学・学部・学科の選択こそが、進路指導の要諦だと私は考えている。その希望実現のために、努力するように励ますのが教師の役割ではないだろうか。これを理想論だと揶揄する人がいるが、理想を追い求めるのが教育の使命ではないか。生徒の希望をしっかりと聞き、生徒自身に考えさせ、自身で結論を出させるよう導く指導であってもらいたいと願う。パソコンに依存する指導であって欲しくない。
私は今でも、高校3年次の担任の指導を記憶している。当時は、偏差値はなかった。I先生は、「君は、教員になる気持ちはないか?」と私に尋ね、教員養成系の国立大学受験を勧めてくれた。先生が何故そう言ったのか、教員になってから何度も考えたことがある。その時、「教員になる気はありません。受験する大学は自分で探します。」と答えた。「そうか」とそれ以上のことは言わなかった。教員になってから、I先生は私の教師像の一人であった。一度お話しを聞きたくて、母校を訪れたが、転勤されてお会いすることはできなかった。年賀状での交流は、先生が亡くなるまで続いた。最終的には、校長になって退職された。I先生は、教員の立場からではなく、生徒の視点から指導してくださった。
組織改革は、実に難しく不可能に近い。トップダウンによる変革しかないだろう。組織は、トップの人間性に負う部分が大きい。人間としての器の問題とも言える。組織は、トップの器以上になることはないと言われている。諫言できる人を側近に置くことができるか、それともイエスマンだけを側近に置くかで、組織の運営の仕方が決まる。良い人材を適材適所に配し、その人材を中心に、組織改革を進められるかどうかである。そのためには、納得と理解が不可欠となる。しっかりと議論できる環境づくりが大切である。そして物事の決定に至るプロセスの「可視化」とモチベーションが高まる「人事」が不可欠だと思う。組織が活性化するならば、組織改革も可能になるのではないか。