昨日、「AI崩壊」の映画を見た。AIに関心があるだけに、どんな映画だろうかと思い、妻を誘ってサントムーンへと出かけた。フードコートで軽くランチを済ませて、12時の上映に間に合わせた。

 2015年の3月に、囲碁の世界のトッププロがAIに負けた。このような日が来るとは、それまで思ってもいなかった。それだけに、衝撃を受けたことは忘れることはできない。「デイープ・ラーニング」により、コンピュータが自ら学習する能力を身につけたのだ。それからの進歩は著しい。AIがあらゆる分野で使われるようになっている。まさに時代は、「AIの時代」に向かっている。アナログ人間にとっては、デジタルな世界は便利だが、ついていけない世界でもある。私は、分からないながらSNSの世界に片足を入れている状態だ。コンピュータ・スマホが動かなくなった場合の対応ができない。今、私の友人が来てくれてパソコンを動かしてくれた。彼なしには、パソコンを使えないのが事実だが。

 この映画は、2030年の日本を舞台に、突如として暴走を始めたAIとそれを阻止しようと奔走する天才科学者(大沢たかお主演)の攻防を描くと紹介されている。天才科学者は、2020年に、開発したAIを使い、癌を患う妻の治療をしようとして、厚労省に申請するが、許可されなかった。妻は癌で亡くなり、一人の娘(こころ)を連れて日本を出て行く。2030年に、完成したAIの開発者として、総理大臣賞が贈られることになる。娘の希望を組み入れて帰国する。すると、その表彰会場で、総理大臣が急死する。同時に多くの人が突然亡くなる事態が起きる。AIが管理するペースメーカーをつけている人が亡くなった。AIのプログラムに異常が生じて、日本中が機能しなくなる事態になる。こころちゃんが、会場に行く前に、お母さんの写真がある袋を研究所で失くしてしまう。その研究所の中枢部に閉じ込められることになる。科学者は、プログラムの誤作動によるAIが暴走したこと、そのために、娘が中に閉じ込められたことを会場に向かう車の中で知る。AIの暴走によって、すべての都市機能は働かくなってしまう。そのプログラムの異常の原因となった容疑を、その科学者はかけられ、警察に追われることになる。逃走劇が始まる。かつてのアメリカのテレビドラマ「逃亡者」を彷彿とさせる。スリリングな映画になっている。最終的には、科学者が、廃虚となったかつての研究所に行き、新しいプログラムを作り、AIの暴走を止め、娘の救出を果たすことになる。このAIの暴走の陰に、政治権力と、警察官僚の思惑が働いている。生産力のある人間と生産力のない人間の差別化を行う「国家警察法」を推進する副総理が抱く法案が存在している。まるで現代社会を投影しているようだ。「緊急事態条項」を憲法に入れたいと思う輩と変わらない。権力の暴走と重なってくる。

 この映画は、SFではあるが、実にリアリティを感じる作品になっている。いい映画だと評価している。AI対人間の対決の時代は、夢物語ではないだろう。AIをプログラミングするのは人間である。人間そのものが問われる時代になると言えよう。「人工知能は人を幸せにできるのか」がテーマになっていると私は思っている。科学技術は、「諸刃の剣」である。人間が作りだし、人間を不幸にしてはならない。便利さと幸せは異なるものだ。「便利な社会が、人の幸せな社会ではない」ことを知らなければならない。人間は、理性と感情の動物である。人間は、自身の中にある理性と感情との戦いと言ってもいいのではないか。「人の幸せは、自身の心にある」と私は信じている。AIは所詮機械である。機械は人間には絶対になることはできない。「AI信仰」は持ってはならないことだ。人間そのものが進化しなければならないと感じている。こんなことを考えさせてくれる映画だ。