大学入試改革の必要性が求められるのは当然なことだと思う。しかし、拙速にしてはならないことだ。大学で学ぶための一定の学力基準をはかることは必要なことだ。その目的が「大学入学共通テスト」に反映されるべきだ。そのために、考えなければならないことは、教育の目的と評価の方法が一致するようにすることではないか。ここに難しさがあることが大きな問題なのだが。

 私のような団塊の世代は、大学ごとの一発選抜試験であった。国立一期校・二期校・公立大学そして私立大学の受験であった。国・公立大学と私立大学では、授業料に5倍程の差がある時代だった。そのために、国・公立大学の難易度が高かった。その後、共通一次試験が導入され、国・公立大学においては、大学別に二次試験が行われた。その共通一次試験から大学入試センター試験へと変化し、全大学が参加するようになったのが、大学入試の歴史である。入試選抜の方法も多様化してきている。少子化の影響により、定員を確保することが困難な大学も増えているのが現状だ。全大学の定員と志願者数がほぼ同じになっている。いずれにせよ、希望する大学に入るためには、競争の原理であることには変わらない。そのための物差しとして使われているのが「偏差値」である。私の世代にはなかった言葉ではあるが。受験生を含め社会が、「数値化」された偏差値に振り回されているように思えてならない。

 新指導要領では、「アクティブラーニング」が実施される。つまり従来の受動的な学習ではなく、生徒が能動的に学ぶことによって「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的な能力の育成を図る」(中央教育審議会答申)内容だとされる。しかし、この答申には、具体的な評価方法には触れてはいない。 この指導要領に伴って、大学入試改革が行われると認識していた。この入試改革に「矛盾」があることが露呈した。文科大臣の「身の丈」発言がきっかけとなった。英語の民間試験導入及び国語・数学の記述式問題が導入される予定になっていた。文科大臣の「身の丈」発言がメディアで報道され、国会でも取り上げられる社会問題となった。2020年度実施が無理なことが判明した。そもそも、国で行うべき試験を民間に丸投げすること自体が間違っている。英検やベネッセの民間業者に利益供与することになる。その会社には、文科省のOBが天下りしているのが実態だ。つまり、官民癒着構造になっている。

 50万人規模の記述式問題の採点を20日間でするためには、約1万人が必要とされ、アルバイトの起用も予想されるとのことだ。受験生には、言語道断とも言える大問題だ。最も大切な「公平・公正」が保障されていない。全国規模での英語民間試験や記述式は廃止すべきだと思う。必要に応じて、各大学の入試で行うべきだと思うが。センター試験は、「入学資格試験」にすればいいと私は思っている。

 最後に、指導要領の「目的」を考えて見たい。従来の暗記による記憶学習はテストで、数値化できる能力(認知能力)を計ることができる。しかし、中央教育審議会答申の汎用的な能力は数値化できない能力(非認知能力)である。記憶能力では、AIにはかなわないことが証明されている。AIには感情や感性がないが、人間にはそれらがある。人間の個性を育て伸ばす教育が要請されている時代になっている。それ故に、入学試験も根本的に見直さなければならいと思う。受験教育から脱却すべき時代だ。残念ながら、このことを認識している人は少ない。今の時代に相応しい試験の在り方を議論し検討してもらいたい。現在の試験は、教育の目的に即す方法としては、「矛盾」していることを指摘したい。エリート官僚主導ではなく、有識者の英知を結集してもらいたいと思う。