私の最大の関心は、「教育と人生」にある。2012年に退職してから7年が経過した。「教育は何のために」「人はどう生きるべきか」を思索し続けて、50年を越える。新卒の22歳で教壇に立ち、64歳で教壇を降りた。42年間の教員人生を歩んだ一人の人間としての思いである。いかに人生の幕を閉じるかを模索しているのが、現在の私である。

 教育の「教」とは、文字通り教えることであるが、「何のために」との「目的思考」及び、何を、どのように教えるのかとの「方法論」の視点が大事となる。「育」とは育てることであるが、この意識が低いのが、教育の大きな問題点である。「教は有っても育がない」と言われてきたのが、日本の教育である。「人をどのように育てるのか」との目的観に照らし、具体的方法を考え、その実践を積み重ねていくことが「教育の在り方」だと、私は考えている。家庭、学校、社会、国の果たすべき役割は、「人作り」にあるのではないか。人こそが社会と国の財産である。教育の目的は、人を「自立・自律した人間」に育てるために、子どもをしつけ、基礎知識を教え、社会で「一人の人間として生きていく力」を身につけさせることではないだろうか。

 教育の前提は、「多様性」にある。一人ひとりが異なる「人格」を持ち、「個性」を有していることを尊重しなければならない。数値化できないのが「人づくり」であり、物作りとは、本質的に異なる世界が教育である。「学校」という効率的な画一的教育が、明治の文明開化以来、戦前・戦後を通じてなされてきた。所謂、知識偏重の「詰め込み教育」である。従って、結果重視であり、成績主義の教育が行われてきたのが、近現代の教育の歴史である。端的な言葉で言うならば、「受験教育」である。東大を頂点とする一流大学へ進学し、一流企業へ就職する教育システムを是としてきた。この旧来の教育的価値観を転換しなければならない時代へと変化している。教育は、「結果よりもプロセス」が重視されなければならない。「偏差値教育」は間違っていると言いたい。偏差値は、「一つの物差し」に過ぎない。人間を数値で評価することはできない。目に見えるものだけに価値を認める考え方を見直すべきだと言いたい。現在の文科省が主導する教育行政は、効率と結果重視の評価査定を行い、予算付けを行っている。大学においては、一般教養や基礎研究を軽視している。将来の社会、国及び世界に貢献できる人材を育てる「使命」を担うのが高等教育である。教育は、国の理想主義とも言える。「国家百年の大計なり」である。夢や希望なしには人は育たない。偏差値で進学を決めるような愚かな考え方は、時代錯誤だと認識すべきだ。学歴社会の象徴である終身雇用制度は、崩壊の一途を辿っている。本当の実力主義とも言える時代を迎えている。科学技術の発展に伴うAI(人工知能)の知識と技術は、人間を上回っている時代だ。「人間とは何か」が問われている時代に変化している。「人間らしさ」とは、「幸福」とは、「平和」とは何かを思索し、人が生きることの意味を考え、行動する必要がある。このテーマは教育のテーマでもある。人間の価値観の問題とも言える。私が好きな英語の言葉に、A man’s worth lies not in what he has but in what he is.がある。普通の和訳は、「人間の価値は、持っている物にあるのではなく、その存在にある」となる。持っている物とは、名誉・地位・財産と解釈できるが、what he isの解釈が難しい。「人間の存在」とは「人間そのもの」「人間自身」「人間性」「人柄」の解釈が成り立つ。現代的解釈は「人間力」と私は捉えている。簡単に表現すると、「人間の価値は、人間力にある」となる。人間個々に内在する能力・感性を磨き上げることが求められる総合的な「人間力の時代」へと向かっている。旧来の価値観では、グローバル競争の世界では、通用しなくなっている。「多数」を是とするのが現実社会であるが、多数が正しいのであろうか。多数が正しいとは言えないと、私は言い続けてきた一人である。自分で物事を考えて判断できる人が少ない故に、多くの人が多数に従っていると言ったら言い過ぎであろうか。「寄らば大樹の陰」「長い物には巻かれよ」と、意識の有無にかかわらずに行動している人が多いのではないだろうか。多数の人たちが一部のエリートのリーダーと称する人たちの虚偽と偽善に誤魔化されていることを知るべきである。このことは、政治の世界だけではなく、人間の組織に共通する問題でもある。個人の上に組織があるのではなく、個人のために組織があると考えるべきである。指示待ち人間ではなく、自ら発信できる人間を育てる時代との認識を持つべきだと思う。2020(令和2)年から、「大学入試試験システム」が変わる。マークシート方式から記述式の試験への大転換となる。受動的暗記学習からアクティブ・ラーニングへと学習方法の大転換へと変化していく。その助走はすでに始まっているが、「人間の意識」は簡単には変わらない。この落差こそが問題なのである。我々の「意識改革」がなされなければならない。何のために人間は存在し、生きているのかとの哲学的命題が問われている。簡単に言うならば、個人の幸福と社会の平和のために、いかに生きるか「人間としての生き方」になる。人間の内面にあるエゴとの葛藤であり、善性と悪性との戦いの連続が自己革新へと成長させていく。人は生涯この戦いを避けることはできない。「無上の道」を求め続けて歩んでいく人生でありたいというのが私の願いである。教育においては、教師は子どもや生徒のために、同じ目線から、共に学びながら成長していかなければならない。「向上心」と地道な「努力」が求められる。一人の人間の成長が、平和な社会への歩みとなることを信じ、「人間のための教育」がなされる社会を切に願っている。