「楽しむ」ことの大事さを日々感じている。仏典には、「衆生所遊楽」との言葉がある。「心の感じ方」の問題と言える。私たち大衆が楽しく遊べる所は、別世界ではなく、今現在いる所に、楽しみがあるという意味だ。この解釈に、異論を感じる人もいるだろう。中国故事では、「足下に泉有り、足下を掘れ」とある。幸せは身近にあるもので、遙か彼方にあるものではない。自分の「心の在りよう」で決まってしまうと、私は感じるようになっている。年齢がそうさせているのか、経験のつみ重ねによりたどり着いた心境なのかは分からないというのが、正直なところだ。ただ言えることは、自分の不幸の原因を他人や社会に転化している人には、絶対にわからないし、理解もできないだろう。
現在の社会は、おかしいことは明らかだ。川崎市多摩区登戸の事件は、実に凶悪残忍な事件であり、ショッキングなニュースである。いつどこで、何が起きるかわからないという不安感を抱かせる事件だ。似たような事件は相次いで起きている。私の住む裾野市でも、コンビニ強盗殺人事件が起きた。殺人未遂事件も起きている。日本の安全神話が揺らいでいる。「人間の安全保障」を考えるべき時代になっている。国家の安全保障よりも優先すべき課題だと、私は思っている。
国家の行政を支える官僚の不祥事が報道されている。経済産業省の課長補佐、文部科学省の参事官補佐が、大麻所持及び使用で逮捕された。あってはならないことが起きている。文部科学省の官僚は、高校担当だと知り、更に愕然としている。こんな連中が、高校教育に大きな影響力を持っているのだ。県及び市教育委員会は、文科省に逆らうことができない官僚の仕組みになっている。国の行政府の長である安倍総理は、トランプ大統領の犬に成り下がっている。国民視点はゼロである。我々が議員を選んでいるが故に、国民の責任でもあることも確かだ。神輿の軽い総理を自民・公明の与党は担いでいる。公明党の党是は何か。「大衆と共に」あるということだ。国民に目を向けていないのが今の政治家だ。自民も公明も選挙のことしか考えていないと言ったら、言い過ぎだろうか。これが日本の政治の現実だ。メディアも本当の真実は書いていないし、書けないほどの圧力がかかっているのかということだ。「おかしいことをおかしいと言える社会」が民主主義だ。付記するが、「責任の伴わない自由はない」ことが前提である。
上記のような「問題意識」を持ち、日々語っているのが、現在の私である。黙っていることはできない性分だ。特に権力や権威に対しては、対峙する覚悟を持っている。基本は「対話」が大事だと思っている。今は、近所の人や友人と語り合う時間をなるべく作るようにしている。身体の衰えはどうにもならないが、心まで衰えさせるつもりはない。というよりも、私の心は、今が一番元気である。記憶力は衰えたが、「思考力」と「理解力」は深まっているから不思議だ。仏教では、不思議を「妙」と言う。その段階にやっときたなと感じる日々である。だから「何事にも楽しむことができる」のだと思う。この感覚の「心」こそが、幸せだと思える。何年生きられるか分からないが、今を悔いなく生きたいと思っている。
6月の妻の誕生日には、下田で一泊する。私はその3日後で、二人とも72歳になる。その晩は、最初の教え子たちが集まって来てくれる。これほどの喜びはない。教師冥利に尽きるとはこのことだ。「我が教育人生に悔いなし」を証明してくれる生徒たちだ。約50年ぶりの再会となる。今から楽しみにしている。