私の家族(孫)への想いを話しておく。書きながら、涙がほほを伝わってくる。悲しいのではない、嬉しいと言う気持ちが強いのだ。人生○○年を生きてきたが、お別れの時を迎えた。人は、生まれるのも、死ぬのも一人だ。今まで○○年生きてこられたことで、満足している。戦後の何もない中で、貧しい生活を経験してきたが、貧しさを意識したことはなかった。幼稚園に通うことはできなかった。新城のぼろの木造住宅で、小学校5年生の夏まで暮らし、その後、宿河原の市営住宅に転居した。住宅の前には、梨畑があった。よくその畑で、梨狩りをしたことを記憶している。今は道路が整備され、立派な住宅地になっている。中学は稲田中学に通うことになった。小学校は新城だったので、学区外のよそ者だった。
私にとって、人生で一番つらく悲しかったのは、母を失ったことだ。小学校3年生で、9歳の誕生日が過ぎた夜中(6月16日未明)のことだった。その時の想いは生涯忘れることはできなかった。でも私は泣かなかった。泣けなかったと言ったほうがいいだろう。病院の霊安室は脳裏に焼き付いている。母との思い出は、ある日縁側で写真を撮ってもらった光景だ。母の笑顔を知らないのが、一番残念だ。霊鷲山では、母にどうしても会いたい。笑顔で再会したいと願っている。私をこの世に生み出してくれたことに、心から「感謝の気持ち」を伝えたい。母の死によって、私は「自立」できたと言っても過言ではない。
中学では、野球部に所属したが、3年生から「いじめ」を受け、退部した。2・3年は、軟式テニス部に所属したが、レギラーを取れないので、3年生の途中で諦めた。受験勉強の方が大事だった。
高校では、新設高校の第1期生のため、部活動はなく、野球同好会を作った。2年生の時に、硬式野球部設立で、野球から離れた。受験勉強との両立が難しいと判断したからだ。大学へ行くためには、国公立大学に入るしか選択肢がなかった。私立の学費は5倍以上の時代だった。私の高校生活の大部分は「受験勉強」だった。人生において、勉強の努力は必要だが、受験のための勉強は、後に残らない。入試が終わった時点で、忘れてしまうような知識だ。令和2年度から大学入試が変わる。学校では、それに対応して学習方法が変わる。従来の受動的な学習から能動的な学習、つまり「アクティブラーニング」が導入されている。教育の大転換だ。本来の学習に戻ったというのが私の感想だ。「物事を自分で考えて判断して行動する人間」が求められている。人としての「生き方」が問われている。グローバルな時代を生きなければならない。活躍の舞台は、日本とは限らない。孫たちよ、世界へ飛び出してほしい。自分自身を磨き、困難に負けない魂を持ってほしい。努力と挑戦の人生を歩んでほしい。語学は身につけないと駄目だ。コンピュータも使いこなせるようになってほしい。AI(人工知能)との競争時代になるかもしれない。人間にしかできないことがポイントになる。所謂「人間力」の時代になると思っている。人生は、色々な事がある。苦もあり楽もあるが、苦しいことの方がずっと多いものだ。その苦しみを乗り越えたところに、喜びや幸せがあることを肝に銘じてほしい。何事も「表裏一体」であり、紙一重と言える。「光と影」の関係になる。どちらがいいとは言えない。「幸せ」は自分で勝ち取らなければならない。自身の「心の中」にこそある。自分の心をごまかしてはいけない。よいと思ったことは、やり抜くことだ。悪いと思うことは、絶対にやるな。「善と悪の判断力は」は、しっかりと身につけてほしい。あとは「勇気」だ。勇気をもって、「挑戦」の人生を堂々と歩んでほしい。私は自分なりに、そのような人生を送って来たとの自負があることを覚えておいてほしい。「自分らしく」生きてほしい。人と比べることには、何の意味もない。人を判断する「物差し」だけはもっていたほうがいい。目的と手段を取り違えてはいけない。迷ったら、「何のために」との原点に戻ることだ。
私の教育方針である「自立」と「自律」は息子たちに受け継がれているはずだ。私の孫たちにも、受け継いでもらいたいと願っている。どんな分野の仕事でもいい、悔いない仕事をしてほしい。私は教員の人生を選択し、その道を「試行錯誤」しながら、自分らしく歩いてきた。そこに私のプライドがある。「我が教員人生に悔いはなし」とみんなに言えるよ。あの世から見守っているからね。「さようなら!」
