「教育とは」の問いに、様々な教育観がある。「自己視点」からの教育観は、十人十色になる。「目的論」の視点から考えることができる人は非常に少ない。教員でさえも、目的論に基づいて考えることができる人は、実に少ないのが現実だ。 「目的論」の考え方は、教育に限ったことではない。普遍的な「思考力」となる。目的論とは、「何のために」、「誰のために」という考え方である。昨年度末に出版された「『目的思考』で学びが変わる千代田区立麹町中学校長・工藤勇一の挑戦」の本を読み始めたところだが、私の教育観と一致している。私は、タイトルだけで、中身が想像できる。ポイントは、「目的と手段を取り違えてはならない」ということだ。手段が目的化する例はやたらにころがっている。この区別ができないと、最も大切なことを見失うことになる。

 昨晩、帰省中の次男に、私の人生に対する考え方を話した。教育についても話しをした。「私の教育人生に悔いはない」と話した。そう言い切れるだけの経験を積んできた。「試行錯誤」の教育人生だ。私はゼロからスタートした。物事を自分で考え、判断して行動してきたのが、私の人生でもある。かなりの失敗を重ねてきたと言うのが、率直なところだ。その「責任」はすべて自分で背負ってきた。辛さ、苦しみ、痛みを経験してこそ、本当の楽しみや喜びがある。これは私の体験から出た実感の言葉だ。

 英語で教育は、education <educate だ。ラテン語「(能力を)導き出す」の意味だ。子どもや生徒の潜在的能力を導き出すということだ。それぞれの個性の違いの認識が前提となる。頭脳、体力はそれぞれ違っているのは当然である。この大前提から物事を考えなければならいと思う。親の教育は、子供の自立と自律するように、愛情をもって育てることである。基本的な躾は親の責任だ。「挨拶」は人間関係の基本となる。また、「善悪の判断力」の基礎を教えなければならない。やってよい事とやってはいけないことの区別が大切だ。家庭教育のポイントとなっている。共働きやシングルマザーは、子育てが非常に大変だが、親の責任を果たさなければならない。子どもを産んだ人としての「責任」がある。

 学校教育は、どうあるべきかを考えて見たい。そこで、目的論からアプローチすることになる。先ず、「誰のために」にあるのかである。答えは簡単だ。「子どもや生徒のため」にあるということだ。「何のために」にあるのか、これも答えは簡単だ。「一人前の大人」として、社会生活ができる人に、となる。一言で言えるほどのことが、実際に行うと難しくなる。それはなぜか。自己中心的なもの考え方が一般的になっているからだ。つまり、目的に対する方法論が異なってくる。方法論は、あくまでも「手段」との認識がなくなり、手段が目的化しているのが現実の社会である。「目的と手段を履き違えている」と工藤校長は強調しているが、全く同感である。校長の言葉を引用すると、多くの教員は勉強することの意味を履き違えていると思います。だからむやみやたらに宿題を出す。本来の勉強の意味とは、生徒たちが『分かる』『分からない』を自覚し、分からないことを分かるようにすることです。一律に宿題を課せば、すでに分かる状態にある生徒に無駄な時間を強いることになります」この言葉の中に、現在の教育の問題点が分かる。勉強の意味とは、生徒にとって、将来への目的の基本となることだ。つまり、モチベーションとの関わりが出てくる。マスト(must)は、身につかないということだ。ウオント(want)は、「~したい」という能動的、自発的なものなのだ。そのような気持ちにさせることが、本来教員の仕事である。従来の学校教育は、生徒にとっては、受動的な学習になっている。受動的とは、生産性を伴わないと言える。

 2020(令和2)年から、学習指導要領が大幅に変わり、大学入試試験も大きく変化する。日本の教育史上最大の転換となる。180度の大転換と言ってもよい。「アクティブラーニング」の全面的な導入である。「本来の教育の在り方」へと変わるだけなのだが。明治時代以来、「読み書きそろばん」の教育が形を変えて行われてきたのが、日本の教育なのだ。西洋の知識や文化を取り入れるための「知識重視の教育」が長く続いた。戦後は、価値観の転換によって、教育内容は変わったが、方法は何にも変わってはいなかった。「受験のための教育」が堂々とまかり通って来た。教員も保護者も疑問に感じることはなかったと言える。私は、教員に成ってから、教育の目的を考えて、「試行錯誤」で自分の方法を模索し続けてきた。その42年間のキャリアから、経験主義の教育論を持っているのだ。空理空論の教育論ではない。大学時代に、人生学、人間学を学んだことを教員の世界で実践してきたとの自負がある。教員の世界では、ある意味で異端と見られがちだった。私の常識と一般的な教員の常識とは異なっていた。一例をあげると、「見守る」ことは、教育の根幹となるのだが、その部分は外からは見えない。校長になったある先輩教員の言葉は、忘れることはできない。「相川さん、偉くなりたかったら、麻雀なんかやっていては駄目だよ」と、彼とは1年間麻雀仲間で、一番上手な人の話しだ。その彼がある時に、「相川さんのクラスからは、生徒指導にかかる生徒がでないよね。何もしているようには見えないけどね」と私に言った。私は、ただ口で注意したり、規則を守らせることばかりに力を入れている教員を認めていなかった。教育とは、と尋ねられた時に、「情熱と信頼」だ、と新採用の指導員になった時に、答えた言葉だ。私が一番大切にしてきたことは、生徒との「信頼関係」である。「信頼」なしに教育は成り立たないというのが私の持論だ。「責任」を持って、生徒を「見守る」ことが大事だと知っているからだ。私の子どもの教育も、生徒の教育も全く変わらないのが私のやり方でもある。自分の子どもと生徒では、はっきりと区別してきた先輩教員をじかに見てきた。「言うこととやることが違う」のである。「言行」が一致しているかどうかが、私の人物評価の物差しだ。建前論に終始している教員がいかに多くいるかを知っている。生徒に「本音」で語れる教員は実に少ないのが事実だ。熱心で真面目な教員はそれなりにいるが。教員自身の考え方で指導できるのは、運動部の顧問の教員の中にいることは知っている。体育会系は、私個人は好きではない。いわゆる「縦社会」の上下関係を形成している教員がほとんどである。「体罰」の問題が隠されてきたと言っても過言ではない。現在は、いじめや、体罰、暴力が、社会問題化しているが、氷山の一角と見ているのが私だ。私は、生徒を厳しく叱ったことはあるが、手を出したことはない。「飴と鞭」は教育ではない。生徒の内在する可能性を、褒めて引き出すのが、「教師」と言うものだ。一人ひとりを大切にできる教師を願う。