「学び」とは何か? 私の性格からくるのだが、人の言うことをそのまま聞いていては、学びにはならない。「自分で考える」という「思考」がなければ、「自分らしさ」は生まれてこない。一律に教えることが、学校教育の弱点なのだが、2020年度からの新指導要領から、方法論が全く変わる。「アクティブラーニング」の考え方・方法論になる。従来の考え方・方法論からは、180度の大転換とも言える。「能動」と「受動」は反対の概念だ。

 どういうわけか、俳句のような「表現」をしたいと思う自分がいる。無知なことは恐ろしいことだ。自分で勝手にイメージを作り上げている。

そのようなイメージで、考えてしまうのが、人なのかもしれない。何かを学びたいと思うと、「教室に通わないと」(マスト)と思ってしまう。教えてもらうほうが、上達が早いと思うのが普通だが。それ故に。〇〇教室が成り立つ。

 広辞苑で俳句を引いてみた。① 俳諧(はいかい)の句。こっけいな句。② 五・七・五の17音を定型とする短い詩。連歌の発句の形式を継承したもので、季題や切字(きれじ)をよみ込むのをならいとする。(中略)短歌と共に日本の短編詩型文学の二潮流。定型・季題を否定する主張もある。 短歌を専門とする前の同僚Iさんに、SMSを使って、質問する。彼曰く「俳句は『ひねる』と言って、『ひねる』とはレトリックのことで、俳句は頭で作るもので、レトリックの手法が流派で違うのです。ですから、実は川柳は俳人の名前で、皮肉に『ひねる』流派で、川柳も俳句の一流派なのです。」「俳句の『俳』は『諧謔』とか『滑稽』という意味なのです。それを否定したのが正岡子規で、『柿を食ったら法隆寺の鐘が鳴ったよ!』が名句と言われても、『ごもっとも』というしかないのです。」と。

 専門家は、自分の解釈が一番良いと考え、他の人よりも自分を上に置きたいと思っていると見なすのが私だ。人の本心は「自分ファースト」というものだ。本当の専門家は、「驕り」の心を排除し、「謙虚さ」を持っていると私は思っている。この原理は、すべての人間の世界に当てはまる。学者、官僚、政治家、法律家の多くは、この「謙虚さ」を失っている。「金・地位・名誉」との成果を求めている。超一流の人物は「謙虚さ」がある。まさに、「実るほど頭の下がる稲穂かな」なのだ。この「物差し」を忘れてはいけないと。

 昼前に、高校の同期生で、同じ大学を卒業したM・A君のことを思い出して、携帯にかけた。彼はすぐには誰からか気づいていない様子だった。高校、大学を通じてあまり話しをした覚えがない。彼が静岡に移り、俳句を趣味にしていると聞いたことを思い出した。同期生のM・M君から携帯番号を聞き、携帯にかけて話しをしたことがある。1年前のことだとの記憶だ。藤枝市に住み、句会で講師をしていると聞いた。志太郡の俳句界のY・Tさんの電話番号を教えてくれた。また、秋元不死男(雅号)の「俳句入門」を紹介してくれた。さらに、裾野市の俳句会の講師で、沼津市在住のT・Mさんとは知り合いとのことを聞いた。人のつながりとは面白いものだと感じる。裾野句会の前講師のN・Sさんは、私が三島南高校にいた時に、同じ教科の先輩教員だった。俳句に趣味がなかった私は、その先輩の趣味が俳句なことは知ってはいたのだが。何せ私は、麻雀の仲間とよく遊んでいた頃のことだ。その仲間との付き合いは続いている。機会は非常に少なってはいるのだが。Nさんの体調面の危惧を抱いていた。彼が講師を続けていたら、句会には入りやすい。事務局に問い合わせたら、私の危惧があたっていた。沼津で『潮育会』を主宰するT・Mさんが講師と聞いた。

 年に10回の俳句勉強会で、第2回は、5/21(火)に開かれ、聴講生として参加する話しがついている。続けるかどうかは、自分で判断すると伝え、許可をもらっている。私は、3年前に、写真の会を2回でやめた。自分の求めていることと講師の考え方が合わなかったからだ。そのような苦い体験をしている。

 今夜の「プレバト」と見て、感じることが多い。夏井さんの解説は上手だ。梅沢富雄はやかましい。夏井さんとのやりとりは、下手な漫才を聞いているよりはおもしろい。17音のリズム、発想、助詞の使い方、比喩表現など、学ぶことが多い。ビギナーの私は、解説を聞いて「なるほど」となる。これが「学び」だ。

 俳句相棒となるHさんと一緒に、「新しい世界」を知ることにわくわくしている。

 夕方の帰り道で一句となる。私の好きな「藤の花」が咲き始めている。藤の花を見ると、51年前の「恋心」を思いだす。「藤子」という名の高校2年生の女子のことを。「失恋」というほろ苦い思い出だ。縁がなかったと言えば、それまでだが、出合う時が早過ぎた。夏休みの1か月の週一、彼女の家庭教師をした。2時間の予定が4時間になり、半分は「雑談」をしていた。その時間が二人とも楽しかった。秋の大学祭に連れて行った。夏には、すでに学園祭に行く約束をしていた。その学園祭の帰りの様子が違っていた。ほとんど無言のまま、家まで送った。私が大学4年目の正月に、用事で家にお邪魔する機会ができた。ほとんど母親と話しをし、藤子ちゃんとはあまり話しをしなかった。横道にそれてしまった。私の授業もこんなものだったのだが。

        「藤の花 心喜び 散歩道