昨日、29年度・自治会の活動を共にしたH区長と再会した。私が元気な時に、会って話しがしたいと思う人だ。最近は、話し好きの私に戻っている。心が元気になっている。友との語らいも復活した。妻は、「嬉しさと心配」の何とも言えない気持ちと忖度している。私の状態の「落差」を知るからだ。私は、妻には何でも話している。具合の悪い時は、私から話しをしないが。それでも、何も言わずに見てくれている。親友のOは、「お前の奥さんが、立派なんだよ!」と私に言う。「そうだよ」と答えている。その会話をそのまま妻に話す。妻は、そばにいると、誰と話しているか、すぐわかる。彼の結婚式の二次会で知り合った私たちだ。彼とのつながりはとても深い。超本音で話しができる間柄だ。ブログ更新のない期間が長いと、ラインでメールがくる。心配してくれている気持ちがありがたい。彼に「話しができるようになったよ」と携帯にかけた。笑い声が返って来た。長話しになった。楽しい語らいで、気が付けば、80分話していた。声だけでお互いの状態がわかるものだ。
話しがそれてしまった。Hさんと、本音の語らいをしたいと思っていた。その願いが実現した。一学年の違いに過ぎないが、キャリアは全く異なる。「地方公務員」との言葉では同じになるが、互いの組織の仕組みは、まったく違う。本音で話すと、歩んだ経験の違いにもかかわらず、理解し合える。「人の本質」に視点を当てれば、わかるだけの経験をしてきている。理解し合える人との出会いは嬉しいことだ。お互いに見る目を持っていると言うと、自画自賛に聞こえてしまうかも。「心の持ち方」(ジェリー・ミンチントン)に、「自分の能力を話すことは自慢とは違う。変に隠さず、社会に役立てるためにありのままに人に伝えるべきだ」と書いてあるが、人のコミュニケーションで、ありのまま伝えることは、とても難しい。「ありのまま」とは、自分を飾るわけでもなく、自分を卑下することでもない。「等身大の自分」を客観視する能力が求められると私は思っている。「自分らしく、正直に」をモットーに歩いてきた人生だ。その道に自負があるのが私という人間だ。彼と話しをしていると、楽しい。「肝胆相照らす」間柄と感じた。その気持ちを俳句(形式)にしたのが、
「春日和 肝胆照らす 茶まりかな」だ。(地元のおうちカフェ「茶まり」(和モダンなカフェにて)
彼が今年度から俳句の会に入ったことを、朝知った。昨日が第1回だと。その後で会うことになった。笑顔での再会だ。俳句は、二人ともゼロからのスタートになる。「相棒」ができたので、私もスイッチが入った。切磋琢磨して、趣味と言える領域まで高めたいとの思いだ。私は俳句や和歌とは無縁の人間だが、嫌いではない。何事も自分でやらないとわからない。わかれば楽しくなる。好きなことを楽しめるレベルまで。
私は、「心の思い」を言葉で表現したいとの気持ちは強い。ブログで、文を書くのも同じだ。話すことも書くことも好きだ。
ネットで検索してみた。便利なツールだ。俳句の基本的なルールは、「季語」が入った「5・7・5の17音」とあり、どんな物事も俳句の立派な「材料」だと。「自分の感じるままに、自分の言葉で思い」を表現するものだ。ビギナーの心得がわかった。これからは「学び」となる。新しい学びのスタートを二人で、一緒にできることに喜びを感じる。俳句や和歌は、「感性」の世界であり、「心」の世界でもあると思っている。二人・同好会との「思い」なのだ。ここに新たな「喜び」の世界が生まれた。「張り合い」ができて、嬉しい。Good chemistry(良い相性)だ。私にあるのは、時間だけだ。「楽しさ」を味わえる時間に。今日は、本屋で「俳句入門」を買いに行く。