「文は人なり」との言葉がある。この言葉に重みを感じる。素人の私が、文を書いて、ブログにあげている。自己の思いの表現だ。文を書いて発信することは、自分の考えを公にしているのだ。自分の言葉に責任を持ちたいと思い続けている。
公人たる政治家の発言は重い。政治家は「言葉が命」である。失言すれば、メディアが国民に伝える。言葉が切り取られることが多いが、今の時代は、録音されている。言い逃れはできない。自分の失言で、辞任に追い込まれる政治家を何人も見てきている。塚田副大臣「忖度発言」、桜田五輪相「復興以上に議員が大事」発言は目新しい。各メディアで大々的に報道された。内閣の一員としての発言は重いことは言うまでもない。聞き手の受け狙いとは言え、「言って良い事、悪い事」さえもわかってはいない。私に言わせれば、「馬鹿」としか言いようがない。言うまでもなく、国会議員は、国民の声を代弁する立場にある。政府は、行政を担う権力を持っている。私のような一国民の発言は、どこにも受け入られない。残念な思いだが。できることは、選挙権を行使するしかない。居住地の選挙区である静岡5区の細野氏の政治家としての「節操のなさ」にもがっかりしている。一票を投じた地元民としての思いである。彼が、今後どんな発言をしても、信じることはできない。政治家は、言動の重さを自覚してもらいたい。
今朝の新聞の声の欄で、目についたのが、奈良県の主婦(66歳)の投稿だ。「内閣はまず道徳の勉強を。「一度放たれた石と言葉は呼び戻せない」と、自身が習った教科書を引用。「大人になると言うことは、自分の言ったことや行動に責任を持つと言うことです」との中学の先生の言葉は、鮮明に残っている」と。政治家の発言にあきれている思いはかわらない。
田中角栄は、「言っていい事・悪い事、言っていい人・悪い人、言っていい時・悪い時」と。その角栄にしても、「してはいけない事」をしたのだ。「物事の善悪」を見極めることこそが、「人」として大事な事であり、「教育」で行われるべき事ことなのだ。道徳の教科書よりも、子どもや生徒の心に響く教員の言葉が大事だと、私は思っている。言葉は言論の武器である。使い方が大事なのだ。「謙虚」に学ぶ姿勢を持ち続けたいものだ。
安倍総理の発言の軽さを常々感じている。彼の言葉は心に響かないし、信用もできない。総理としての資質に問題はないのか。「適材適所」の人事がこの結果だ。言葉の使い方も間違うことが多い。「真摯に受け止める」との言葉が、実にむなしく聞こえるのは、私だけであろうか。アメリカ大統領のトランプも同じことが言える。
どの世界でも、「人」次第と思っている。地位・財産・名誉ではない。人間性・人格こそ、人の価値だと思うのが、私の「価値観」だ。