隆雄は陽子との遠距離交際を経て、昭和47(1972)年4月29日の天皇誕生日(現・昭和の日)に結婚した。住居は教職員集合住宅だった。下田北高校と下田南高校(現在は両校が併合し、下田高校に)の教員家族12世帯が住んでいた。市街地から徒歩10分程度の距離にあった。学校は市街地の外れにあり、現在は、南高の跡地が病院になっている。陽子にとっては、見知らぬ土地で、誰も知り合いもいなかった。隆雄が11時過ぎに帰宅するまでは、とても寂しい思いをしていた。食事の用意をして待っている日々だった。結婚当初はテレビもなかったが、白黒の小型のテレビを貰って見ていたような生活だった。夏頃に初めてソニーのカラーテレビを買った。当時の給料の2倍を越える値段だった。土曜日の夜中には、独身寮にいた同僚の深山、土岡、斎木の3人と麻雀をよくやった。明け方に3人が帰る足音が響いていた。その頃、日曜日の午前中に、近所に住む北高の生徒の聖子ちゃんを教えていた。彼女に英語を教えている途中で、居眠りすることがよくあった。その時には、彼女は黙って勉強していた。隆雄が独身の時は、彼女の家に行って教えていたが、結婚してからは、隆雄の家で教えていた。入学してから卒業までの3年間英語を教えていた。真面目でおとなしい性格の子で、薬科大学へと進学した。その後も年賀状でのやりとりはずっと続いている。旦那さんは若くして病死したので、障害のある娘さんと二人暮らしをしている。仕事は薬剤師として薬局で働いている。隆雄が聖子を教えていた時には、想像もつかないような人生を送っている。隆雄の定時制の教え子の中にも、何人か亡くなったことを、
今年のとも子からの年賀状で知った。人生は先のことは全く分からないものだ。人それぞれに宿るのが宿命なのだ。
昭和48(1973)年の4月12日に、長男の亮一が生まれた。逆子で生まれたために、首が曲がっていたので、病院に通い、砂枕をして寝かせていた。陽子はお風呂の中で、マッサージを毎日続けていた。幸いなことに、1年後にはいつのまにか、しこりが直っていた。隆雄が印象深く記憶に残っているのは、亮一が歩き始めた頃のことだ。住宅の前のゆるやかな坂道をよたよたと歩く姿が脳裏から消えることはない。その亮一も結婚して翔と煌の父親になっている。平成18(2006)年の4月に、久子と入籍した。翌年(2007年)の12月6日に翔が生まれた。煌が生まれたのが、平成22(2010)年2月22日である。この平成30年度には、小学校5年生と3年生になる。
隆雄は命名書の裏書に、「翔君生まれてきてくれてありがとう。明るく元気な子に育ってほしい。大きくなったらしっかり勉強して、立派な人間に育ち、社会のために尽くせる人になることを願っている」「煌ちゃん生まれてきてくれてありがとう。心やさしい明るい子に育ってほしい。大きくなったら、しっかり勉強して、きらめく人生を歩んでほしい。そして社会のために尽くせる人になることを心から願っている」とそれぞれに書いて置いた。2016年3月6日に書いたブログ「わたしの孫ー愛する孫へ」を印刷して、青とピンクのクリアファイルに入れてある。いつの日か読む機会があることを願って書いた文で、長文になっている。