人の相性はどうにもならないが、どの生徒とも同じような気持ちで接することはできる。

その上での感情の問題はしょうがないと、隆雄は思っている。

吉原高校に転勤してから、隆雄にとって、砂のむしろに座るような経験をした。

具体的に言うと、女子生徒の嫉妬の問題に直面した。転勤して5年目の32歳の時だ。

隆雄は、昭和54(1979)年、この年の3月に卒業生を初めて送り出した。

新年度4月に、2度目の1年生の担任になった。校舎改築のために、プレハブの校舎ができた。

3クラス6時間の英語の授業を持つことになった。プレハブ校舎の1クラスの授業を持つ。

そのクラスに、影島仁美という生徒がいた。彼女の隆雄への印象がとても悪かったようだ。

「怖い先生、この先生には教わりたくない」と入学前から思っていたことを後に知る。

最初の英語の授業で教室に入って来たのが、隆雄だった。「えー、うそでしょ」とショックだった。

中間試験が終わり、テスト返却の時に、1クラス10人、3クラスで30人の生徒を呼び出して、

放課後に補習を行った。その最初の補習の時に、「相沢先生って、こんな先生だったの」と、

180度印象が変わった。「何にも怖くないし、おもしろい先生だ」と思ったようだ。

その後、彼女が職員室によく来るようになり、話しをするようになった。

女子生徒は一人で来ることはほとんどない。山川洋子と二人で放課後頻繁に、職員室に来ていた。

洋子はあまり話しをしなかったが、仁美はよく話しをしていた。隆雄は、話せることなら何でも

正直に話しをしていた。二人は楽しそうな様子だった。つまらないと思えば来るはずがない。

秋のある土曜日の放課後の事だった。荒山明子が、たまたま職員室に来た時に、

3人が楽しそうに話している場面を見かけた。月曜日にそのクラスの授業に行き、

教室に入った瞬間に、隆雄は唖然としたが、表情に出さないようにした。後ろの黒板に大きく

「泥棒猫」と書いてあった。隆雄は、異様な雰囲気を感じた。その中で、平然と授業を進めるのが、

毎時間大変だった。生徒の名前を呼んで指すことはできない状態だった。からかいの声が出る。

女子は集団化するのが恐ろしい。リーダーシップを持つ生徒の影響力が集団を支配する。

女性の担任を巻き込む問題にまでなった。影島のグループは少数で、荒山が影響力を持っていたので、

対立関係になったが、荒山の方に集団の力が働いた。隆雄の立場ではどうにもならなくなってしまった。

担任から事情を聞かれたが、正直に答えた。このような場合、担任もどうすることもできない。

片方の肩を持つことはできない。隆雄にとって、唯一幸いなことは、自分が担任のクラスではなかったことだ。

もしも担任だったならば、クラス運営に大きな影響が出てくることになる。

約半年の間、このクラスの授業がつらかった。いかに平然と授業をするかは難しことだった。

学年が変わり、荒山を教えることがなくなったので、やっとその辛さから解放された。

 

感情の問題は、理性を超えることになる。状況の変化と時間だけが解決するものだ。

影島は2年生でも教えることになった。影島と洋子が教科係り(御用聞き)に志願した。

二人は、授業の前に必ず来て、話しながら教室へと行くことになった。放課後もよく話しをしに来ていた。

隆雄は二人を依怙贔屓していたのではない。話しに来る生徒は誰も拒むことはなかったのだ。

3年生になった時に、影島と洋子は別々のクラスになり、隆雄はそのクラスの授業を持たなかった。

文系の3クラスの授業を持つことになった。その中の33ホームルームの担任をすることになった。

二度目の文系進学クラスの担任になった。実はこのことにもいろいろな経緯があったのだが。

33ホームルームの生徒は、卒業後5年毎に、お盆休みの時にクラス会を開いている。

隆雄の年齢では、35歳から5年毎になる。50歳の時にもらった寄せ書きが、隆雄の宝物だ。

HAPPY BIRTHDAY 50 となっている、「先生おめでとうございます。当時と”ほんと”お変わりないですよね。

1年ほど前にショッピングセンターで2度お会いしてしまって.....。ダンディな先生にお会いできるのを

楽しみにでかけていきます。E・M」「あのダンディな相沢先生が50才!わたしも30おばさんになるわけですね。

相沢先生にはいつまでもダンディに決めてもらいたいな。N.F」「50才、おめでとうございます。相沢先生の

ひょうひょうとしたところがとてもいいと思います。これからも変わらずステキでいてください。Y・M」の

メッセージを34人の生徒からいただいた。とてもありがたいことだ。懐かしく読んでいる。

また、60歳の時に開かれたが、定年のお祝いのサプライズで、61歳の時に特別に開いてくれた。

66歳の時は、隆雄は体調不良で出席できなかった。今年が開催予定になっているはずだ。

この学年の生徒は、隆雄が吉原高校に来た時と、学力的にはやや落ちるが、とても良い生徒たちだった。

隆雄には、ほろ苦い思い出と共に懐かしい思い出として残っている。