隆雄は、自分の人生を振り返ると、人間関係を大切にしてきた人生だと思っている。人間対人間だから、通じ合うと信じてきた。人は一人ひとり異なるが故に、また人それぞれの持っている特性や感情も違う。誰とでも合うわけではないない。相性が合う合わないはどうにもならない。相性が良いことを、英語では good chemistry と言う。人の化学反応だ。隆雄は、教員生活で一番心がけてきたことは、生徒に対して依怙贔屓をしないことだ。私の受け持った最初の生徒に、林という名の生徒が二人いた。一人は賑やかな生徒で、私と陽子が、結婚する前に河津七滝から湯ケ野を歩いていた時のことをみんなにばらしてしまった。もう一人は、卒業の時に初めて口を聞いてくれた生徒が光雄だ。「先生は依怙贔屓しなかった。斉木先生とは違っていたね」とにこやかに笑いながら話してくれたことを忘れていない。この生徒たちを3年間受け持ち、卒業させることができたことが、隆雄の生涯の財産となった。教員としてやっていける自信がついたのである。最初の2年間は、試行錯誤が続く日々だった。余裕など全くなかった。一日一日が真剣勝負だった。生徒たちには自分をさらけ出した。ともかく自分という人間を知ってもらおうと、授業中に余談を交えた。余談だけで授業が終わることもあった。それでもいいと思った。「自分らしく、正直に」が彼のモットーであり、信条となった。このスタンスは教員人生において変わることはなかった。
最大の思い出と転機ともいえることは、3年次の時の12月の人事異動希望調査だ。隆雄は、この時に転勤希望を出すかどうかで悩んだ。2年で転勤できないことはもちろんわかってはいたが、気持ちの問題である。迷い悩み抜いた末に、転機希望を出すことをやめた。年が明けてから、改めて転任希望を出さなくてよかったと思ったのが1月の末だった。それまで悩みながら考えていた証しでもある。2ヶ月くらいかかって気持ちの整理がついた。「今受け持っている生徒を全員進級させて卒業させてあげたい」と心から思えるようになった。そのような気持ちに成れてことが嬉しかった。自身の心の中のもやもやがなくなり、すっきりとした気持ちになった。この辺りから、気持ちが楽になり、余裕も出てきた。3年目の4年生の担任を持った時には、何の苦労もなくなった。受け持ている生徒を卒業まで頑張らるように励ますだけだった、クラス運営は何もしなくてもよくなっていた。生徒も隆雄の気持ちがわかり、信頼できる気持ちになっていた。授業をわかりやすくする工夫をすれさえすれば他の問題はなかった。くじけそうな生徒を支えてあげることに全力を注いだ。昭和48(1973)年の3月の卒業式の時の生徒の喜びを目の当たりにして隆雄は感動した。今でも涙が出てくるほどの思い出になっている。外山幸子が「相沢先生のおかげで、卒業まで頑張ることができました。本当にありがとうございました」と言って、泣いていた。生徒は全員が泣いていた。卒業までくることの大変さをみんなが知っていた。お互いに卒業を喜び合っていた。この光景を隆雄は生涯忘れることはなかった。全日制の生徒には理解できない喜びであった。苦労があったからこその喜びだ。外山は卒業して数年後に結婚した。隆雄か吉原高校に転勤してからだが、その席に招待され、祝辞を述べたことも記憶している。「先生にだけは出席してほしかったよ」と言われた。隆雄の記憶に鮮明に蘇っている。涙がこぼれている。この生徒たちとの触れ合いの体験が、その後の教員生活の土台となったのである。この生徒たちのことは、昔の姿のまま記憶しているし、名前も覚えている。隆雄は、この生徒たちに心の底から感謝している。「本当にありがとう!」