隆雄は、話しのできる人間関係を求めて、高校の教員になった。目的は教科を教えることではなかった。大学時代の専門を生かしたいと思うのが普通の考え方だと思うが。隆雄にとっては、教科よりも、生徒との触れ合いを求めていたのだ。教員である以上、教科を教えなけれならない。しかし、教科だけを教えることが、教員の仕事ではない。深山君が言っていたが、「教員は専門性がないですよね」と。実際に、教科よりも他の仕事の方が多いのが現実なのだ。
 隆雄にとって、大学時代の4年間の生活は、学問にあったのではなく、いかに人生を生きるか。生涯にわたる職業のことを考えていた。自身の性格を客観的に見ていた。4年間の間に、自分の問いに、自身で答えなければならなかった。自分自身の人生だからだ。自分らしく生きることができる世界を探していたのが、大学時代なのだ。隆雄の世代は、所謂団塊の世代と呼ばれ、200万以上の人が、凌ぎを削る競争の世代だった。戦後の貧しさをみんなが知っていた。物心がついた時には、今の時代とは違い、テレビもなにもない時代だった。昭和39年の東京オリンピックを境に、日本が高度経済成長の時代へと動いていったのだ。隆雄は、そのオリンピックの年は、高校2年生だった。九州への夜行列車での修学旅行はオリンピックの終盤で、マラソンを西鹿児島の駅でテレビ観戦していた。裸足のアベベ選手が独走していた場面を記憶している。その修学旅行後に、一人で受験体制に入って行った。高校受験の時と同じように、家の経済的事情から、私立の学校には通うことが認められなかった。中学3年生の時に、隆雄の得意な科目の英語と政治経済は、高校入試の傾向と対策のレポートをまとめていた。レポート用紙一冊分のレポートにまとめ上げた。英語に関して言うと、ほとんど完璧なレポートだった。彼の勉強方法は、暗記学習ではなか
った。自分で内容をまとめて、整理しながら頭の中にインプットしていくやり方だった。独学の習慣を身につけたのはこの頃だった。高校受験は、9教科の各50点満点の合計が450点の一発試験だった。内申書の成績は関係がなかった。実力次第と言うことになる。しかしワンチャンスしかないのだ。合格か不合格の結果次第で進路が決定した。この原理は、大学受験、入社・教員採用試験においても同じだった。一部の富裕者の子弟を除いて、熾烈な競争が展開されていた。高校へは第一志望から変更を余儀なくさせられた。新設高校普通科の県立新城高校へ進学するしか選択肢がなかった。隆雄が目指したのはナンバーワンではなく、オンリーワンの道だった。彼は自身の中では、ワンポイント主義と呼んでいた。一つだけでも他の人には負けない科目を持つことだった。それが英語ということだけだ。言うまでもなく、新城高校は、川崎市のトップ校ではなく2番手の学校だった。ここでもふるいにかけられることになる。英語か数学ができなければ、難関の大学には進学できなかった。英語と数学の両方ができる生徒が一流大学へと進学した。文系か理系かの選択はじつに難しい問題だが、隆雄は典型的な文系の人間だった。理科と数学では勝負できなかった。社会科で唯一得意な科目が政治経済だった。彼にとっての利点は、好きな教科と得意な教科・科目が同じだったことだ。人間は興味があり、好きなことは頑張れると言うことだ。この人間の原理は不変であると言える。好きだから頑張れるのか、頑張れるから好きなのかの問題ではない。人によって違うと言うことだ。鶏が先か卵が先かの問題とは違う。隆雄には選択肢がなかったことが、幸いな結果となっている。彼は、大学に入学した時に、受験競争から自ら降りたと言える。教員採用試験のための勉強をしなかった例外的な人間でもある。団塊の世代を教えた教員は、実質的には採用試験はなかったのが事実だ。デモ・シカ先生の言葉があるように、大学を卒業しても、教員にでも、教員にしかなれない時代もあった。何時の時代でも需要と供給の関係にあることには変わらない。教員の質にはかなりの差があったこともまた事実だ。隆雄の世代は高倍率だったが、それだから教員の質があがるわけでもない。数年後には、都市部では、大量に学校が作られために、採用試験の倍率はかなり下がっていた。教員は一定レベルの学力があれば、教科的には問題にはならない。より難しいのは、生徒指導の問題にある。この生徒指導、言い換えると生徒との人間関係で、教員としての力量が問われることになる。私立と公立の大きな違いは、転勤があるかないかとも言える。私学は経営者側につかなければ務まらない側面がある。俗に言うと、長い物には巻かれよとなる。公立は転勤があるために、様々な教員や生徒と出会い、勉強も経験もさせられる利点がある。究極的には、人(間)次第という結論になる。