「せんせえー、せんせえー」の声が、後ろの方から聞こえてきた。誰のことかと、隆雄は思ったが、他には人の姿は見えなかった。後ろを振り向くと、にこにこ笑っている女子生徒がいた。「相沢せんせーって、読んだのに、わからなかったの」と。彼は自分が声をかけられるとは思ってもいなかった。下田の街は狭いので、どこで生徒に見られているかわからない。それからは、意識するようになった。またある時には、「先生、女の人と喫茶店で話していたでしょ。彼女なの?」と学校で言われた。昭和45年当時は、ボウリングのブームだった。下田の街中にもボウリング場があり、その向かい側にテラスのような喫茶店があった。今は喫茶店との言葉は使われなくなっている。今風な言い方をすれば、カフェテラスになる。その場所で、事務の女性と話しをしていた。その場面を外から見かけたと言う。噂となり、静岡銀行の女性と一緒だった、となってしまった。どこからそんな話しになるのかと戸惑いを覚えた。
下田南高校の定時制は単学級で、1年から4年までの4クラスだった。1学年が、平均30人程度の小規模の学校だ。隆雄は、いきなり2年生の担任にさせられた。新卒の教員に担任を任せることはありえないことだった。専任教員は6人で、教頭と女性の事務職員がいた。職員室は、教室よりも狭く、普通の声で話しをすれば、声がみんなに届いた。入山教頭の炉辺談話が打ち合せの大部分を占めていた。午後3時から始まり、4時半までかかっていた。若い教員を育てるとの意識の強い先生だった。県内定時制の最古参の教頭で、入山天皇と言われるほどの人だった。隆雄は2年間教頭から色々な話しを聞き教わった。教頭の口癖は、「この定時制で教員としてやっていければ、どんな学校でも通用する」と。県内の教育界の様々な情報を、炉辺談話の形で話してくれた。隆雄が担任となった経緯は、後から知ることになるが。1年生の時の担任と生徒との関係がうまくいっていなかったので、新卒の教員に押し付けたのだった。実に無責任な人事をしたものだ。隆雄が受け持った2年生のクラスは、先生に対する信頼を失っていた。生徒は社会人でもあった。働きながら学ぶ生徒たちだった。社会の底辺で働きながら、学校に通っていた。卒業までの4年間に脱落する生徒も少なくはなかった。学校がある意味でのオアシスのような一面があった。社会への不満のはけ口にしている生徒もいた。友だちと会うためにだけ来ている生徒もいた。学力的には、全日制でもやっていける生徒たちもかなりいた。家庭的に経済的にも恵まれていないというハンデを背負っていた。隆雄のように、すんなり大学を卒業してきたばかりの先生の言うことを簡単に聞くはずはなかった。1年から2年に進級できなかった生徒が何人もいたようだ。その問題のあるクラスの中に放り込まれたようなものだった。隆雄を助けてくれたのが、委員長の平川富士男であり、副委員長の女子生徒の吉川右子である。右子は、隆雄と話しをするようになってから、「先生は、1学期の間目が真っ赤に充血していたよ」と言っていた。隆雄のことをよく観察していた生徒だ。平川は授業中に、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とよく言って、質問をした。この二人の生徒が果たしてくれた役割は大きい。隆雄は生徒との間の大きなギャップに悩む日々が続いていた。彼は教育のノウハウも持っていなかった。5月にはノイローゼ状態になっていた。反骨精神が強いので、外的な圧力には簡単には引き下がらない性格であった隆雄が。教員人生の中で一番悩みながら試行錯誤を繰り返して、わかりやすく教える方法を模索していた時期だ。この意識は生涯変わることはなかった。授業を通じて、生徒の信頼を得ることだけを考えていたと言っても過言ではない。上級生のクラスの生徒の中には、「今度来るのは新卒の先生だってさ」とか「大学出たての新米の先生だってさ」との言葉で言われていたと聞いた。彼ら生徒の方が、隆雄よりもずっと大人だったことは確かだ。
定時制では、5時30分にホームルームが始まり、45分授業の4時間授業で、9時30分に帰りのホームルームが終わり、放課後になる。部活動は1時間程度行われ、生徒は10時30分過ぎに下校する。教員が帰るのは11時過ぎになる。独身寮に帰ってから夕食になる。独身寮には、全日制の教員が6人入っていた。その中の体育の山川さんの命令で、定時制の二人が麻雀に引き込まれた。山川さんは、隆雄を「川崎、やるぞ」と声をかけてくる。なぜ川崎と呼ばれたかというと、隆雄が川崎の出身だからなのだ。先輩教員たちは徹夜で麻雀をして、そのまま授業をするような人たちだった。隆雄にとっては、先輩教員との付き合いよりも、クラス運営や4クラスの授業をどうするかに頭を悩ましていた。一番神経を使ったのが、自分クラスの2年生の授業であった。クラスの運営と授業は、車の両輪の関係にある。