隆雄は人生の8合目を越えたと感じている。視界が大きく広がっている。ここまで来れたとの思いもあるが、これから頂上へと向かって歩いて行くのだ。この先の世界は未知である。楽しみながら、人生の頂点へと歩いて行く決意をしている。 振り返れば、横浜の大学を卒業後、縁もゆかりもない静岡の地に、高校教員として採用され、赴任した学校が下田南高校の定時制だ。現在は下田北高校と統合されて、下田高校になり、蓮台寺にある旧下田北高校に校舎が移転された。
伊豆急下田駅に一人の青年が降り立った。その青年が相沢隆雄、22歳である。彼には、その時の情景がつい昨日のことのように浮かんでくる。駅から国道を歩くと、左手に下田警察署があった。そこを通り過ぎると、短いトンネルがある。そのトンネルを抜けてしばらく歩くと、右手に校舎が見えてくる。徒歩10分ぐらいだった。校舎の正門へと入っていく。1970年の3月の上旬のことである。この日は面接の日であった。隆雄自身は、面接に特別の緊張感があるわけではないが、これからの生活がどうなるのかが不安であった。自宅から大学に通っていたので、一人で生活したことがない。料理をした経験が全くない。生活面での自立ができていない、今もその点では変わっていないのだが。
正門から入り、玄関前の事務室へと来校の理由を告げた。応接室に通された。後から二人の先生が入ってきて挨拶をした。校長と教頭の二人の先生の面接だった。校長は「スポーツは何が好きかね」と尋ねた。「野球が好きです」と隆雄は答えた。その程度の記憶しか残っていない。教頭が何を話したか、何にも記憶に残っていない。この次は、3月25日の会議に来るように言われたことを記憶している。この時点で、全日制とも定時制とも言われなかった。面接の時に、なぜ定時制勤務だと言わなかったかのを知ったのは、定時制勤務になってからのことだ。過去の面接時に、定時制勤務と告げたら、静岡県の高校採用を断った例があったそうだ。大変な事態になったと聞いて知ったことである。
4月2日から4日までの二泊三日の新任研修が、御殿場市の国立中央青年の家で行われた。現地集合の現地解散であるが、御殿場駅からは送迎バスが用意されていた。約160人が一堂に会した。この青年の家には、教員になってから何回も来ることになる。隆雄は川崎の実家からJR(旧国鉄)に乗り、小田急線の新松田駅から御殿場線に乗り換えて、御殿場駅の富士山口に降りた。目の前には雄大な富士山が見えた。バスで青年の家に行き、結団式が行われた。すぐ目の前に富士山がそびえていた。研修の内容は記憶には残っていないが、青年の家の規則が厳しいことに驚かされた。5分前行動で、駆け足の移動を余儀なくされた。複数の研修団体が利用していたが、一番規則を守らなかったのは教員集団だった。他の団体の動きは軍隊を彷彿させるほどだった。この新任研修は、青年の家の職員からは不評だったことは事実である。研修後それぞれの赴任地へと赴いた。隆雄の教科は英語である。英語の新任採用者は16人で、その中の2人が女性である。今の教員社会では考えられないほどの男子社会だった。女性にとっては狭き門であった。その二人の女性は津田塾大学の卒業で、
一人は現役だった、その一人の女性とは、2年目研修の直後に、沼津で食事をしたことを覚えている。実にきれいな英語の発音をしていたので、驚きであった。沼津西高出身の才女といえるかもしれない。男子にしても、現役は隆雄と静大卒の二人だけだった。残りの13人は年長者ということになる。この時代の静岡県に採用された教員の8割以上が、山間僻地にある高校か定時制へと配属された。一部のエリートだけは東海道沿線の学校に勤務した。隆雄は伊豆半島のはずれにある定時制の配属となったわけである。