SNSの世界は恐ろしいと。「便利さ」と「あやうさ」が表裏一体をなしている。私のような団塊世代は、この世界に入ることが出来ない人がほとんどと言ってもいい。ネックはパソコンの操作だ。パソコンが導入されたた頃には、仕事上では、上の立場についていた人が大部分で、自分でパソコンの操作をする必要がなかった。部下や後輩に任せていたというのが事実だ。私の場合、授業のプリントと試験問題の作成は、ワープロからワードへと移行していた。エクセルに関しては、得点を記入するだけで、成績処理は後輩がやっていた。自分でやらなかったことは、身についっていないのは当然なことで、パソコン、スマホの時代の流れになると、その流れには入れないというのが、一般的傾向と言える。私がスマホを持ったのが昨年の5月である。ガラケイからガラホに替えて1年も経っていなかった。幹事をやるにはスマホが必要だった。電話のかけ放題にしておかなければ、電話料金がたまらないと危惧したことが動機だった。6月と7月の二つの会の幹事だった。7月の会は、50年前の仲間と先輩と連絡を取って箱根へと一泊することを提案したのが私だ。それ故に私が幹事をするのは当然なことになった。連絡と調整で頻繁に電話連絡をした。中にはメールのやり取りもできるとわかったので、メールにしたが、一人の先輩は典型的なアナログ人間で、SNSそのものも知らない人だった。その先輩とは、手紙と電話でやり取りしている。通話料が先輩の負担にならないように配慮しているので、心おきなく話しをすることができる。1時間くらいの話しはざらになっている。人生及び哲学の話しになるのだから、話しが長くなる。私の親友は「相川と話しをすると長くなるので、覚悟がいるから」と言う。話し好きな性格と凝り性な性分の私だ。納得しなければすまない人間でもある。しかし、頭は固くないタイプだ。相手の話しを受け入れる「受容力」は持っている。相手のレベルに応じた「対話」ができるということだ。
本題に戻そう。同期生の山崎洋子さんが「江戸川乱歩賞」を授賞したことが、同期生が集まるきっかけになったとのことだ。男子は、宮川君が中心になって連絡を取り合ったそうだ。山崎さんのお祝いの会が、50人ほどで行われたと電話で聞いた。卒業後20年が経っている。名簿もはっきりしていない状態のようだった。川崎や横浜に残っている同期生は多くはいない。2015年の5月に同窓会で、山崎さんが講演すると聞いたので、母校へと出かけて行った。周囲の環境もすっかり変わってしまい、武蔵中原駅から新城高校までの行き方がわからなくなっていた。浦島太郎のようなものだ。その時に、山崎さんに初めてお会いした。宮川君は用事で来られなかったので会ってはいない。つい最近メッセンジャーで、携帯電話の番号を交換したので、初めて話しをしたのだ。同じクラスになったことはないことは知っていた。その電話で住所をということで、直後に送った。「50周年記念誌」を送っていただいた。その記念誌を見て、50年の時空を越えていろいろなことが蘇って来た。FBの友達になっていた小林君が一期生の思い出を寄稿していたので、携帯番号を教えてもらった。早速電話したのが昨日の事だった。彼とは中学の同級生でもあった。電話の話しの中で、中学時代の同級生の消息が話題になった。同窓会が開かれていることを初めて知った。亡くなった人の葬儀で顔を合わせ話しをしていることも聞いた。その中で、彼とずっとつながっているK君のことが話題になった。そのK君とは2年生の時に同じクラスだった。どこの高校へ進学したのかさえも知らなかった。頭のいい奴との印象を持っていた。小林君が携帯番号を教えてくれた。昨夜、K君の携帯に電話を入れた。小林君から教わって電話したと伝えた。彼は、県立川崎高校へ進学し、一浪して都立大学の化学科へ進学したことを話してくれた。私は現役で横浜市大に入り、卒業後静岡県の英語の教員に成ったことを伝えた。話していくうちに、思い出してきたよと、「横浜市大に入ったとはすごいね」と、また私がゴーイングマイウエイの人生を歩んだことを伝えると、「キャリアと話しを聞いただけで、中学の頃の君と重なってくる」とのようなことをさらっと言った。頭のいい奴は理解が早い。彼は破天荒な人生を送ってきたように私の目からは見えるが、それが彼らしい個性とも言えると感じた。実に楽しい会話が出きたことに、お互いに喜んでいる。彼との意見が一致したことは、「人間の本質、性格は変わらないものだ」となる。履歴を見ると45分になっているが、あっという間の時間だったような気がする。同期の宮川君と小林君とは4月ごろに横浜で再会することになりそうだ。語り合うためには、3人くらいがちょうどいい。これからタイミングを計ることになるが、とても楽しみにしている。