時代の変化を感じている。「active」 の反対語が「passive」だ。日本語では「能動的」と「受動的」の形容詞になるが、反対の概念だ。私が受けてきた戦後教育は、「詰め込み教育」と言われ、暗記して記憶する力を競う教育だった。私が教壇に立っていた時代もほとんど変わらなかった。変わったのは大学の入試形態で、受験対応の教育が行われていたのが事実である。所謂「受験教育」なるものだ。この弊害は今でも変わってはいないだろう。受験に対する親や社会の意識が変わっていないからだ。要するに価値観の問題になる。一流大学、一流企業神話が長く続いてきた。しかし、その神話が崩れ始めてきていることにやっと気づき始めたようだ。親の世代は、固定観念として変わってはいないかもしれないが。グローバル経済の下で、国際的競争力が求められている。従来の教育では対応できないことが分かり始めてきたようだ。資本主義社会が進み、格差社会を生み出している。大学も国際競争に晒される時代に変化している。大学教育も単にブランドでは通用しなくなっている。大学教育も変化せざるを得ない状況だ。多くの大学では、アクティブ・ラーニング「能動的学習」が実践されてきていると聞く。歓迎すべき流れである。従来の知識の伝達から、学生の興味・関心を喚起して「自分で考える力」をつけ、社会及び世界が抱えている困難な問題に主体的な解決能力を養うことが目的とされている。アクティブ・ラーニングのキーワードは、「内化と外化」との言葉を知った。ざっくり言うと、自分で理解し、表現できることのようだ。私の基本的な考え方は、「自分で考え、自分で判断し、自身に責任を持つ」ことだ。能動的な姿勢なしには、この考え方は生まれてこない。私が歩んできた42年間の教員人生には後悔はないとはっきり言うことができる。現在は、SNSの世界に足を入れて、迷いながらブログ、FBを通じて「記録」と「発信」を行っている。どう受け止められているかはわからないのがこの世界かもしれない。直接目に触れることはできないネットの世界だ。教室では生徒の顔や表情でキャッチできるのだが。アナログの世界とデジタルな世界の違いということなのか。このネットの世界も「共有・共感」を求めている人が多い。「いいね」や「コメント」でのリアクションから想像しているのだが。残念ながら、悪意や欺きを目的に利用している人もかなりいるようだ。私のレベルではよくわかっていないことだが。
今日の新聞で、LTDなる言葉を初めて目にした。英語での表現では、Learning Through Discussion になる。引用すると「人が話している最中は、できるだけメモをとらず、書いても箇条書き程度にとどめる。相手の顔を見て、集中して話しを聞く。全員が発言する。他人と同じ意見だとしても、自分の言葉で説明する」と。また、「アクティブ・ラーニングの導入は、“教員がいかに教えるか”という「ティーチング」から、“学生にいかに学んでもらうか”を追求した「ラーニング」へ、パラダイム(思考の枠組み)の転換を意味します」と。教育の流れが変化していることは間違いない。小・中学校、高校においても、新教育課程では「アクティブ・ラーニング」へと移行していく。その試行はすでに実施されてきているようだ。AIにないのが「創造力」だと言われる。主体的な問題解決能力には「思考力」が求められ、その「発信力」が表現力だ。このような時代の変化を知るべきではないか。