「話し好き」な私が戻ってきている。実に嬉しいことだ。「折れる心」と「弾む心」では、天と地の違いがある。「苦しさ」を知って初めて「楽しさ」がわかることを実感している日々だ。「苦楽一如」である。同じ心の中に大きな差異がある。そのための条件は「健康」である。健康なしに「楽しさ」を味わうことはできない。昨年の自身を振り返ると、実感としてわかる。今朝私がFBに投稿した師の言葉「さあ友と会い語ろう!人は対話の中で大きく成長できる。生き生きと弾む命で友情の花を爛漫と!」を味わっている。今年のテーマは「出会いと再会」を楽しむことだ。今まで培ってきた「人間関係」を更に大事にしたいと思っている。10日にはF君(Oさん)が我が家に来た。その後で御殿場にランチに行き、数時間を共有して会話を楽しんだ。11日にはIさんと沼津のカフェで語らいの3時間を過ごした。二人とも元高校教員で同僚であった。F君とは40数年来の親交が続いている。年に1回は私の家に来て会って話しをしている。共通の趣味はないが、人としての信頼関係が大きいと認識している。Iさんは国語の教員で、生徒の「青春短歌集」を作成した。彼は大学院卒で、同級生は大学教授をしているそうだ。歴史にも精通していて文章も書ける人だ。意外に思われるかもしれないが、私の知っている国語の教員の中で、文章を書ける人は彼ぐらいかもしれない。短歌を書く人はいるのだが。Iさんを一言で表現すれば、教員の世界の「異端児」と言える。そういう私も「異端児」ということになるだろう。共通点としては、人と同じであることを好まないことにある。趣味での共通点はない。教員としての共通点を挙げるならば、生徒指導が困難な学校を経験し、そこで自分の個性で乗り越えてきたことの自負心が強いことにある。彼は孤独な人で、人間関係の幅が狭いために、話し相手がいないのが事実だ。その相手を私に求めている。彼の話しを妻にすると、妻は「めんどくさい人」だと評する。妻の言うめんどくささは理解できるが、一定の知的レベルのある人と互角に対話することで自身の啓発にもなると感じている。彼は自身の生きざまを私に話すことで、
「共感」してもらえることで満足できるようだ。お互い個性が強く、反権力的思考を持っている。彼は「うつ病」で3年間休職してから定年を迎えた。独身生活を送り、経済的には豊かな生活をしているが、孤独である。彼が言うには「私の話しを聞いて理解してもらえるのは先生しかいない」とのことだ。昨日は写真のことで、彼の家に行くことになった。家の中がまるでギャラリーのようになっている。ポスターサイズの写真まである。彼は人物写真を撮ることが好きなようだが、風景写真も素晴らしいと感じる。ヨーロッパの風景を好んでいる。デジタルカメラを使いこなし、構図の捉え方一つで、プロにも負けない写真が撮れると言っている。道具を使いこなせるかどうかの時代になっている。道具が進化しているために、道具を使いこなせる「スキル」さえ身につければ、良い写真が撮れると言う。カメラは、ニコンやキャノンとソニーではコンセプトが違っていると。デジタルな世界はソニーのカメラが強いと言っている。私のカメラはソニーの一眼レフミラーレスだが、私は使い方を知らない。彼が私に教えてくれると言う。私の世界が広がる「楽しみ」を今感じている