私の行動のキーワードになっている言葉が「納得」である。納得できなければ、誰からの指示に従うこともない。それが私の生き方であり、その生き方を通してきたことが私のプライドである。では「納得」とはいかなる意味かを考えてみたい。例えば、私はあなたの発言に納得できない、を英語で表現すると、I cannot accept your words.となるだろう。アクセプト(accept)は「受け入れる」が原義である。人の言葉や考え方を理解し認めて、自身の中に受け入れることが納得することではないか。私は人生の師に対しては、全面的に受け入れて自分の行動の規範としているので、完全にイエス(yes)の立場にある。その他の面では、
言い換えると所属の組織の中で、上位の立場にいる人に対して「イエスマン」のスタンスを取ることはないし、取ってこなかったと、はっきり言うことができる。是々非々のスタンスと理解してもらえればいい。教員人生では、学校の方針にせよ、私自身の中で咀嚼・理解し、納得しない限り、生徒にはそのまま伝えることはなかったことは事実だ。上からの垂れ流しの指導をしたことはないとはっきりと言える。自分で考えて判断することは決して楽な事ではない。組織の論理や、上司の意向を忖度する方がずっと楽である。なぜかというと、そうすることで「自己利益」につながるからである。自己の利益を優先するならば、自分の気持ちを抑えなければならないのが現実社会の人間関係である。私の信条は、「自分らしく正直に」である。この信条に反するならば、ノーであり、そう発言してきたと自負している。私は、「自分の心に正直でありたい」と願って人生の道を歩いてきた。「自分の心」とは自分の利害に捉われず、自身で「納得できる心」を意味している。自分が納得できないことを人に(生徒に)納得させることはできないということだ。教育の世界でも何かと「規則」との言葉がでてくる。生徒手帳にも学校の規則が書かれている。教員はその規則に従い、生徒指導のマニュアルとしていることが普通である。私はこの規則に関しても疑問を感じることが多かったのが正直な気持ちである。「何のための規則なのか」を考えずにいられること自体が私にはおかしいと思ったのである。私は規則を否定しているのではない。規則に縛られていることが問題だと言いたいのだ。現状にそぐわない規則は変えるべきだと言っている。社会は変化しているし、人の心も変化している。規則だけではその変化には対応できないことを知るべきだと思っている。「普遍的」な部分と「可変的」な部分の区分けをせずに、規則としてひとくくりにすることがおかしいと言いたいのだ。「規則だから守りなさい」は一見正しいことを言っているように聞こえるが、私的に言うならば、そのような言い方自体が間違っているということだ。可変的要素を理解していないからだ。
ここで一つの例をあげることにする。教育の中で、生徒指導の大きな部分を占めていたことに、頭髪・服装の問題がある。この事柄は実に可変的なことで、社会の流行に左右される。私が生徒の時代は、男子生徒の着帽が指導の対象になっていた。いつの頃からかは忘れたが着帽の問題は消えた。私が教員時代には、女子のスカート丈の長さが問題になっていた過去がある。膝を規準にして上下の指導が行われていた。長いスカートの時も短いスカートの時もあった。社会の影響を受けていたことが事実で、善悪の問題とは関係ないことである。ある教員は、「マニュアルがないと生徒指導ができない」と職員会議で平気で発言したことが忘れることのできない記憶として残っている。日々生徒指導で追われていた学校でのことである。生徒指導はフェイス・トゥ・フェイスで行われるものであり、その対応の仕方にマニュアルは存在しない。教師の力量が問われることになる。教員との上から目線では生徒指導はできないということなのだ。このことがわからない教員があまりにも多すぎる。おそらく今でも同じだろう。
話題を政治家に向けてみることにする。教員の世界と同じことが起きている。国民の代表の議員と国民との間の認識の違いが顕著である。安倍総理にしても「真摯に説明し国民の理解を求めたい」と繰り返し語っているが、国民の気持ちそのものを理解していないことが
わかる。「森友学園・加計(かけ)学園」問題が生じることこそ問題なのだ。テロ等準備罪(共謀罪)法案にしても、自公政権は多数の力で強行採決したことが事実である。国民が納得する説明はできてはいない。大臣の資質レベルも実に低いと言わざるを得ない。安倍チルドレンの一人である豊田真由子議員の秘書へのパワハラ・暴行問題、稲田朋美防衛大臣や金田勝年法務大臣の資質の問題、公明党の佐々木さやか議員の金田擁護発言、上西小百合議員のツイッター発言を巡る問題等、国民の一人として納得できないことが多すぎる。共通して言えることは、人間としての未熟さだと言える。大切なことは、学歴や知識ではないということだ。上から目線で人を見下す「慢心」が問題の根幹だと言える。国民の代表として選ばれたことは、エリートを意味するのではない。国民のために奉仕する役目を与えられたとの認識がなければならない。自分を偉いなどと思ってはならないことを肝に明記すべきだ。
最後に私の師の言葉を引用する。「人間の真価というのは、学歴や立場。肩書によって決まるのではない。信義を守るかどうか、誠実であるかどうか、真剣であるかどうかである。そして、『信義の人』『誠実な人』『真剣の人』には、人間性の光彩がある。」「リーダーに私心があれば、まじめな人材ほど苦しむことになる。反対に、リーダーが無私であればあるほど、
その『無私の真空』に引き込まれるようにして、よき人材が集まり、衆知が集まり、民衆の信望が集まってくるものだ。」(名言100選より)
私は自分が納得できないことを人に言うことはできないし、するつもりもない。自分で納得できるまで思索し、納得したことを行動に移す「随自意」(自分の意志に従う)であり続けたいと思っている。不器用ではあるが、それが私の生き方だから。