「家族」とは何だろうか。英語では family (ファミリー)である。広辞苑によると、「夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団。社会の基本単位。」とある。現代社会において、基本単位である家族が崩壊しつつあるような気がしてならない。少子高齢化が大きな社会問題であり、日本の現実は、超高齢社会へと向かっている。人口減少と平均寿命の伸長のために、二人で一人を支える時代の到来が近づいている。現在の社会保障制度を維持することができなくなることは間違いない。ハード面の改革が求められるが、それ以上に私たちの心と意識の問題に関わるソフト面が大事になっているように感じている。現実の社会は、ソフト面の問題が深刻化しているのではないだろうか。ハード面がその原因の要素に大きく関わっていることは確かなのだが。
最も身近な家族はどうなのだろうかと考えてしまう。
私の家族には、妻と二人の息子がいる。長男は結婚し二人の子供がいるが、次男は40代で独身生活をしている。通常、次男と会えるのはお盆の休みと正月の休みの2回でしかない。
長男家族は隣に住んでいるので、二人の孫にはいつでも会えるが、長男夫婦と会って話す機会は実に少なくなっている。二人の孫にとっては、私の家も自分の家も同じような居場所と言える。長男夫婦が共働きしているために、私の妻の役割が大きくなっている。孫たちにとっても、妻(ばば)の存在は大きい。彼らにとっては、私は妻とのセットでの存在のようだ。
二人とも妻とはよく話しをしているようだが、私と話しをすることは少ないことも事実だ。
妻が孫との会話を私に伝えてくれるので、孫の言葉は理解しているつもりではいるのだが。
孫の世代は、親と対等の関係に近いように感じている。同じ年齢で比べてみると、息子たちとは全く異なっている。一言で言えば、時代の変化ということになるだろう。子どもなりに
親の言動をよく見ているし、真似をしているということだ。「子は親の鏡」とは言い得て妙なりだと思っている。私の孫たちは我が強く実に自己主張が強い性格だ。二人が一緒にいると喧嘩ばかりしている。妻も二人を預かって一日中一緒にいると、とても疲れると言っている。私の場合は、実際には逃げていると言えるが。孫たちも私に遊んでもらおうとは思ってもいないようだ。それでもたまに相手をすると喜んでくれている。私は自分の子どもに対しても、妻に任せていたことと変わりはない。しかし、子どものことはすべて妻から聞いていた。私を必要とする時には、父親としての役割を果たしてきたとは思っている。息子たちにとっては、遊び相手というよりも怖い存在だったかもしれない。この点でも息子と孫では大きな違いと変化がある。孫たちにとっては、怖いと感じる存在がないように思える。現時点では、このことがいいのか悪いのかの判断は正直できない。孫たちが日々元気に遊んでいる姿を見ている限り、問題はないと私は思っているのだが。私の家では、孫たちは自分の家と全く同じようにはできないと感じているようだ。私的に言うならば、孫にとっての私たちの存在は「異文化」との交わりということになるのではないか。結婚自体が「異文化交流」というのが私の持論である。男と女の性別の違いを含めて、生育過程が異なる人間同士が一緒に暮らしていきながら、新しい家庭の「文化」を作り上げていくのが結婚生活であると私は考えている。お互いが同じ方向を向いて、一緒に人生の道を歩いて行くことは楽な事ではない。山あり谷あり分かれ道があり、平坦な道は少ないかもしれない。二人をつないでいるのは、「愛情」と「信頼関係」に尽きると私は思っている。私たち夫婦が子どもたちに自慢できることはただ一つだ。私たちは、子どもたちの前で一度も喧嘩したことがないことだ。子どもたちに寂しさや不安感を抱かせたくなかったからだ。また、家庭は子どもたちが安心できる居場所(ホーム)でなければならないからだ。現代社会は、子どもたちにとって居場所があると言えるだろうか。居場所のない子どもの方が多いのではないか。20数年前から共働きの主婦が専業主婦を上回り、同時に離婚率が高くなったことと不可分の関係と捉えるのが私の見方である。時代の流れと一言で片づけることはできないが、時代が大きく変化したことも事実である。まさに「コンピュータ革命」と言えるデジタル化社会(インターネット社会)に変化した。スピードが速くなり、便利さが最優先される社会へと変化した。その代償として失ったものに、多くの人たちは気がついていないのではないか。競争の原理と成果主義が「人間らしさ」を奪っていると私は捉えている。
ゴジラの研究者である京都大学山極寿一総長は「サル化」する人間社会の著書の中で、「勝ち負け」のないゴリラ社会、「優劣重視」のサル社会。人間社会はどちらへ向かう?との問いに、人間社会はサル社会になり始めていると警鐘を鳴らしている。「人間は、『家族』と『共同体』の二つの集団に所属して暮らしている。人間以外の動物は家族と共同体を両立できませんが、私たち人類は、この二つの集団を上手に使いながら進化してきました。この点こそが、ほかの動物と人間を分ける最大の特徴と言える。」「人類は子育ての必要性から『家族』を作り、『共同体』をつくりました。そして、次第に集団規模を増大させていったのだと考えられます。子どもを一緒に育てようと思う心が、大人に普及していった。それが人類の家族の出発点なのです」と。「言語を使うずっと前から、人類は共感にもとづいた共同生活を行っていた」「共鳴集団の最大の特徴は、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションと言えます」と記している。大まかに言うと、言語革命、産業革命、コンピュータ革命と進化したのが人間の歴史と言えるのではないだろうか。その反面、「人間らしさ」を失ってきたとも言えるのではないか。私の中では「人間疎外」との言葉が消えることはない。疎外感が増し、孤立感を感じているのが現代社会ではないのか。人間の「原点回帰」はハード面では不可能だが、ソフト面では可能だと信じたい。人間の心の中にある「善性」と「悪性」との戦いである。性善説でもなければ性悪説でもない。人間は「社会的動物」であり、一人では生きていけない動物である。利己主義の個人ファーストでは社会は成り立たない。大聖哲の言葉に、「汝須(すべか)らく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祈らん者か」とある。簡単に言えば、自身の幸福を願うならば、社会の平和を祈りなさいと私は理解している。一人ひとりが家族を大切にし、地域社会を少しでも住みやすくするように努力することは可能だし、しなければならないことではないだろうか。自分ができることを能動的・主体的に行動するしかないのではないか。その行動の中にこそ、「充実感」という「喜び」が生まれるものだ。家族のため、地域社会のために自分なりにできることで貢献したいと願っている。