私は話しをするのが好きだ。スマホに変えてから、友人たちとも長く話しをすることが多くなった。できれば直接顔を合わせて話しをしたいのだが、近くに入れば別だが、なかなかできないことだ。対話のキャッチボールができる関係は嬉しいものだ。本音でしか話しができない不器用な私だ。自分の意志に反することを言うことはできないし、行動することもできない。私は束縛されることを嫌う。人を束縛することも嫌いだ。「自由」を価値としている。人生を自由に生きることは不可能に近いとも言える。30年ほど前に、先輩の教員から「相川さんは自由人だね」と言われた言葉が忘れられない。「そうですかね」と答えたように記憶している。確かに他の人に比べると制約を受けずに、話し行動していたように思う。肩書や役職に価値を置かない人間だ。ありのままの人間として相手に接することが大切だと考えていた。その考え方は全く変わっていない。私の好きな英語の言葉の一つに、A man’s worth lies not in what he has but in what he is. がある。今の辞書では、People’s worth lies not in what they have but in what they are. となっている。(人間の価値はその人の持っているもの「財産」にあるのではなくその人柄にある)<ライトハウス英和辞典第6版>what の用法として、私がよく使った例文だ。私の人生の価値観でもある。人は、目に見える物に目を向けることは誰でも同じだろうが、そこに価値を置くかどうかは別である。競争社会では、社会的地位や肩書・役職また財産に価値を置くことが一般的であるが、私はその考え方に否定的であった。人の価値はその人の持っている物で測ることができるだろうかと疑問に感じて追求してきたのが私の人生でもある。もっと大事なことになぜ気づかないのか不思議に思っていたし、今も同じ考えだ。サンテグジュペリは、「星の王子さま」の中で、「人生で大切なものは目に見えない」と書いている。100年以上前にかいていることだ。人間の本質は時代によって変わることはない。時代は大きく変化していくが。時代に左右されない普遍的真理だと私は考えている。人は誰でも幸福を求めて生きている。その幸福とは何であろうかは、私のテーマでもある。結局は、価値論に行きつくのである。私が今大事にしていることは、人と会って本音で話しをすることだ。政治家の発言を聞けばわかるように、自己の保身のために嘘を平気でついていることがわかるだろう。国のリーダーのレベルと質があまりにも低いと言わざるを得ない。コンピュータ社会になり、便利さと引き換えに「心の不自由さ」を感じているのは私だけであろうか。一言で言えば、「閉塞社会」になっている。本音で堂々と思っていることを言えない社会になっている。人間のヨコの関係が希薄になっている。自分の利益しか考えない「エゴ社会」になっているというのが私の認識だ。そのために、「教育」の重要性がますます高まっていると私は考える。

 先月に、「本音トーク」の集いを3人でスタートした。「何にもしないお話会」にも参加してみた。明日は、「地域づくりの土台づくりという視点」の会に出ることにした。地域は高齢化が進み深刻化している。その対策としては、「人と人の関わり」が重要である。人は会って「本音」で話せるような「人間関係」が求められている時代だと感じている。