私の人生のテーマは「自分を探せ」であり。人生は自分を探す旅のようなものだと思っている。生涯をかけて、「自分は何のために、生まれたて来たのか?」を追求する気持ちは全く変わっていない。とうとう70歳を越えた。残りの人生は限られている。「悔い」だけは残したくないと思う。きれいごとを言うつもりはないが、「無私」の行動で行こうと気持ちを新たにしている。42年に及ぶ教員人生は2012年で終わった。その後の5年も病気に耐えながら、自分の「居場所」探しをしてきた。趣味や遊びの世界がなくなっている。私の好きなスポーツが野球であり、好きなゲームは、麻雀、囲碁、ボウリングだった。過去形になっている。すべて相手がいないとできないものだ。5月には数年ぶりに「六遊会(りくゆうかい)」の4人が集まり、麻雀をすることができた。永久幹事のY君の定年のお祝いができた。とても楽しい時間を過ごすことができ嬉しい。囲碁も1年ぶりに「吉原OB職員囲碁愛好会」で打つことができた。幹事のために、打つよりも話す方に専念したかもしれない。5局打つべきだが、3局しか打たなかった。全員とマンツーマンで話しをした。このようなことは初めてである。体調が良かったからできたことだ。カメラを持って行ったので、宿泊した8人の写真を撮ることができた。良い記念になると思う。来年渡す約束をしている。ボウリングに関しては、62歳になる少し前に、急性の前立腺炎から敗血症になり、1週間入院した。それ以来リーグ戦から離れ、競技ボウリングを引退した。今では、右手に力が入らないので、再び遊ぶことはないと思っているが、7月上旬に、私がコーチをしたW君(進学校の英語教員)と2年ぶりに会って遊んでみることにしている。多分投げることはできないのではないかと思うが。雑談ができればいいとしている。7月末には、学生時代の仲間と30数年ぶりに集まり、箱根の塔ノ沢に宿を予約している。5人で集まるが、どのような展開になるのかわからない。幹事の私は宿の予約までということに。その中の一人の先輩と「ライン」でつながった。挨拶を英語で書いてくるので、英語で答えることになる。これはこれで楽しい。メールでは、「教養とは」がテーマになった。このテーマはレベルが高くなるので、英語では十分表現ができないのだが。Mさんの英語によると、教養を英語で表現するのは難しいとの前置きで、「教養とは高い知性に基づいた豊かな心の状態」と解釈を述べて、私の意見を求めていた。私が英語で書いた内容を日本語で説明すると、教養とは、自分を知ることであり、人生は自分を探す旅のようなものだと答えた。“汝自身を知れは、古代ギリシャのソクラテスの言葉であるが、私は、生涯をかけて「私とは何か」を知り探し出したいと思ってきたとのことを書いた。そして私のブログ「教養とは」を添付メールで送った。Mさんは、今度の会でそのことについて私と話すのを楽しみにしているとの返事をもらっている。私とMさんの考え方は「共有」していると考えている。今の私の考えでは、「教養とは哲学なり」である。「哲学」のギリシャ語の原義は「知を愛する」である。
現在の私の居場所は「対話」によるコミュニケーションを重視している。フェイスブックとブログでの発信が居場所と言えるかもしれない。「対話と行動が生きがい」となっている。