2014年8月10日毎日新聞「みんなの広場」への投稿掲載文です。
「教育に専心できる教育行政を」の投稿を読みました。教員・学校評価制度が導入されてから、報告書類等の雑用が増えてきて、教員がパソコンに向かう姿が日常的になっていることは確かです。しかし、毎時間の授業展開の報告を求められたことはありません。現役の後輩に確認したら、授業の報告はしていないし、知らないとのことです。授業展開の詳細の報告は不可能だし、必要のないことです。現在の教員が、私の教員時代よりもはるかに多忙になっていることは事実です。物理的に余裕がなく、教員本来の仕事である「生徒と向き合う」ことや「教育に時間をかける」ことが、できないのです。教員間のコミュニケーションの欠如を生み、教員集団としての教育力が劣化しています。教育的活力が衰退することが大きな問題だと感じています。教育現場を重視する教育行政の改善が求められます。
昨日の午後、初めて裾野市議会を傍聴した。内藤法子議員が、一般質問で、「教職員の過重労働解消について」の質問を行うことをFBで知ったからだ。この問題も実に難しい問題で、解決の道が見つからないのが現状だが、議会で取り上げること自体には大きな意味があると感じる。教育長が答弁していたが、事務的な答弁になっていると感じた。教育現場は、教員の口から聞きださないとわからないと思う。公に発言できる教員はほとんどいないと言えるが。私にしても小・中学校の現場のことはわからないのが事実だ。県立の高校に限定すれば、ほとんどのことはわかる。いずれにしても。共通項はあると思っている。簡単に言うと、「ハード」と「ソフト」の二つの視点がある。過重労働はハードの側面が強いが、そのことが教員の内面(ソフト)に影響を及ぼしているとの問題になり、その教員が子どもの教育に大きな影響を及ぼしていることになる。「教育は誰のためにあるのか」との目的観からスタートしなければならないと私は思っている。高村市長が答弁の中で使った言葉に「充実感」がある。ここにソフトの問題のポイントがある。物理的な忙しさの軽減をしなければならないことだが、教員の「内面の充実感」は、政治や行政では与えることはできない。教員がこの点をどう捉えているのだろうか。一人ひとりの答えは異なると思う。忙しさの中にも、「心のゆとり」と「心の充実感」があるかどうかに帰着するのではないか。私に関して言うならば、そのような心の働きを感じたのは50代になってからだ。「試行錯誤」の連続の中から、自分自身で出した答えだ。物事を「自分で考えて判断する力」が求められる。受動的な姿勢ではなく、能動的、前向きに取り組む姿勢・態度が大切なのだと私は経験的に考えている。最後に事実としての現象に触れる。それは何かというと、教員相互の「人間関係の希薄化」が進んでいるということだ。その主な原因は、「教員への管理」が強化された時期から始まっている。社会の変化と不可分の関係なのだが。 (19日のFBに掲載)
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教員の勤務に関しての大きな問題点の一つに「部活動の指導」がある。最近は「校外指導員」に教員と同等の資格を与え、報酬を出す制度が設けられてきたようだ。
私の経験的立場から言うと、専門性を必要とする運動部及び吹奏楽部の負担はとても重いのが事実である。体育の教員は、自身の専門分野に関わっているので、「やりがい」を感じて指導に当たっているが、一般の教員が運動経験のない部活動の顧問を強いられていることは今でも変わってはいない。特に若い先生は従うしかないのが現状だ。ベテラン教員は、部活動の過重負担を避けることができる。若い先生の中には、経験のない運動を生徒と一緒にやりながら、指導できる段階まで努力して到達した先生もいる。私の遊び仲間の同僚はその経験をしている。私にはできなかったことだ。私は数多くの運動部の顧問につけられたが、そのために努力をすることはなかった。早々と文化部の顧問へと変わった。文化部の中では、吹奏楽部が例外で、運動部と全く変わらない。「時代の変化」を書いて置かなければならない。私が運動部の顧問をしていた頃に、日常の練習に顔を出すことはあまりなく、公式試合の引率教員のレベルだったことは事実だ。コーチがいる時はコーチ任せにしていた。それでも文句を言わるようなことはなかった。「モンスターペアレント」と言われる社会へと変化していくと、責任問題が追求されることになる。真面目な教員が多いので、職務の負担(ソフトを含めて)が増えたことが事実だ。部活動に加えて、教員が抱えている問題に「保護者への対応」が大きいのではないか。高校でも担任を積極的に引き受ける教員は減っている。管理職は校内人事で頭を痛めている状況だ。
新聞投稿した「教員・学校評価制度」の導入以来、教員の多忙化が進んだことがまぎれもない事実だ。ほぼ15年が経過している。このために「報告」文書の作成に追われるようになった。パソコンの導入によって、メールでの報告を求められるように変化してきた。このようなハードの流れとともに、教員間の「つながり」や「意思疎通」が無くなっていったのだ。現在の職員室から話し声が聞かれないと耳にしている。雑談の中で、生徒を含めた生の情報が得られたのが過去になってしまったことはとても残念なことだ。教員の「孤立化」を生み出した。ここにこそ、ソフトの問題が生じている。組織としての活性化も無くなってくる。教員集団としての指導力が必要な時代にもかかわらず。校務分掌による仕事量には、はっきりとした違いがある。私が経験した分掌は、「総務・教務・生徒・進路・図書・研修」課である。生徒課と進路課を多く経験している。課長としては、図書課長を2校で、7年経験している。進学校では、進路課が忙しく、問題のある学校では、生徒課が最も忙しいことも事実だ。課長もまた忙しい立場にある。課長次第で、分掌の若い教員に負担がかかる。あからさまに言うならば、教員の評価は「人事」に直接影響する。昇進にしても、校長から推薦されなければ管理職試験は受けられない。管理職試験はオープンではない。流行語とも言える「忖度」が働くのは当然のことだ。教育行政も役人の世界である。「現場主義」にはなっていない。