2004年に「英文法対話」をまとめることになった。そのことを当時の研究紀要に

載せた一部を記しておく。

「私は長い間、『対話型の授業』を理想としてきた。実際の授業では、それを実現できな

いまま、今まで30年以上授業をしてきた。1クラス40人では、物理的には不可能だが、

気持だけは、そのような授業展開をすべく努力してきたと思っている。現在、英語教師と

しての”総仕上げ”として、『対話形式による英文法解説』に取り組んでいる。完成する

までには、時間が相当かかると、覚悟はしているが、是非完成するまで続けたいと思って

いる。この研究紀要では、その一部を紹介しようと思う。

まず初めに、高校英語への導入部分となる「英語の基礎・英語のしくみ」についてである。

次に、生徒が苦手とし、教え、定着させることが難しい文法項目である「準動詞」につい

てである。私は、長年この分野を生徒にいかにわかりやすく教え、解説するかを一つの

テーマにしてきた。この私案がこの「英文法対話」である。不定詞・動名詞・分詞につい

て、高校生が習得すべき事柄の「エッセンス」を解説したものである。もちろん、生徒の

ために書いているので、生徒にはプリントとして配布し、教えることを目的にしているも

のである。最近の若い先生の中には、英文法を教えるのを苦手にしている傾向が見ら

 

れる。そのような先生にも少しでも参考になれば、私は嬉しい。」

*‘

 私が扱った教材に「言語と思考」の英文がある。授業では、この英文を「フレーズごと

に区切りを入れさせて、そのまま日本語にして読み下す方法を使った。その例として、

前の版のブログでは紹介したが、改訂版では省くことにした、私の日本語訳(生徒には

プリントとして配布)をここに載せる。一読に値すると思っている。

 <言語と思考

 多くの思索家は、長い間、言語と思考との関係に関心をもってきた。言語が私たちの

 

考えを反映していることは、一般的には一致している。すなわち、私たちが生活の中で、

何かをとても大切だと考える時、私たちはよく言語において細かい区別をする。この区別

で最もよく知られている例の一つが、アラビア語に見られ、そのアラビア語には「ラクダ」

を意味する多くの単語がある。この観点からすれば、日本語にお米を表すいろいろな単語、

例えばコメ、イネ、モミ、ゴハンやライスのような単語があることは驚くことではない。

 しかし、言語は、私たちの思考を支配し、決定できることを信じますか。この考え方は、

二人の有名な言語学者ベンジャミンリーウォーフジュニアとエドワードサピアによって

提唱された。二人の学者は、言語はただ報告し、話すためにだけ使われているのではない

ことを提唱した。二人の説によれば、言語は私たちの思考を限定する。言い換えると、

言語は、コミュニケーションの手段や文化の反映だけではなくて、「思考の道具」である

 この言語観は、「サピア=ウォーフ仮説」と呼ばれていて、一個の色眼鏡によくたとえ

られる。眼鏡が赤ければ、人が見るものすべてが、かなり赤く思える。このある出来事の

視覚は、青の眼鏡や他の色の眼鏡をかけている人の視覚とは違ってくる。 この仮説に

よれば、日本語を話す人と英語を話す人が、同じ出来事を見ても、別々に考えるでしょう。

例えば、あなたなら、どのように次の文を日本語に訳しますか。My sister went to Tokyo. 

たぶん、あなたはつぎのようなことを考えついたでしょう:「妹は東京へ行きました」。

大切なことは、あなたが my sister を訳すために使った単語です。あなたは妹か姉のどち

らを使いましたか。 サピア=ウォーフ仮説を支持する人なら、この例は、英語と日本語に

おける思考様式の違いを表していると言うでしょう。英語を話す人は、兄弟・姉妹を男か女

として分類する。しかもそれだけである。もう一方、日本語を話す人は、兄弟・姉妹を男で

あるか女であるかを分類するだけではなく、歳が下であるか上であるかを分ける。このこと

は、英語においてほとんどの場合、年齢の上下の違いは重要ではないことを表している。

そして、この特色が、英語を話す人の現実への考え方や見方に影響を与えている

人々は言語の違いで考え方が違うとすれば、驚きではありませんか。あなたはこの理論を

事実だと思いますか。(日本語訳:相川)



 この学校でも図書課長として、「学校運営」に関わり、必要な意見は主張して来たつも

りだ。学校の前期・後期の2期生(この頃のはやりのようなもので、現在は3学期制に戻

っている方が多い)の議論もした。学校の在り方の「提案」も行った。学校の変革期にさ

しかかっていただけに色々意見を求められたと記憶している。図書課でもパソコン管理の

提案も行ってきた。今では全ての学校で行われていることだが、パソコン管理が行われる

ようになったのは、私がこの学校を再任用で転出してからだと思うが、はっきりとした記

憶ではない。時代がパソコンにシフトして行くのである。私は最後の学年の生徒に授業の

中で、「これからのグローバルな情報時代は、パソコンと英語が道具として使われる時代

になる」と言った記憶がある。教育の世界も遅ればせながらパソコンによる情報管理と

 

報告書類が多くなり、教員が「多忙化」していったことは皮肉な結果だと思っている。

 

便利な道具が、事務の合理化だけではなく、それを扱う人間を多忙にしたのである。

 

ここでも図書課長の時に書いた文章の一部を載せる。

 「私は、長い間『自分らしく』をテーマに、教師である前に、一人の人間として、生徒と

接してきたつもりである。私は、生来不器用な人間なので、「自分に正直に、自分らしく

生きることを信条として、『信頼』をキーワードに、30年を越える教師生活を送ってきた。

「この道」を歩いてきたことに後悔はない。私は人間が好きで、生徒との人間同士の触れ合

いを求めて、教師の世界に入った。その他の点では、ネガティブな理由で、職業の選択をし

たと言える。具体的に言えば、利益を追求し立身出世を競う実業社会には向かない。

生産・販売・営業の仕事には向かない。デスクワークの事務的な仕事や、役所の仕事には

 

向かない。研究者・専門職としての能力がない。創造的な仕事をする才能がない等である。

他の職業についていたら、どうなったであろうか。だが、そんなことは一度も考えたことも

ない。どこの世界でも、自分の思うようにはいかないし、それなりの困難や苦労がある。

喜びもあれば、悲しみもある。自分の前にも、自分自身の中にも、乗り越え難い壁がある。

その壁に挑戦する「勇気」心の中に持ち続け、日々努力する人間でありたいと思う。

 

私は、生徒の「笑顔」・真剣な「眼差し」を心の支えに、私を必要としてくれる生徒がいると

 

固く信じて、今までやってきた。『自分らしく』やってこられたことに、私の「プライドと喜び」が

ある。自分らしくは、自分勝手であってはならない。あくまでも、自分を信じて、自分の長所

を伸ばすことである。そのためにも、良い本を読み、物の見方・考え方を『自分なりに

身につける必要があると思う。読書は「思考の世界」だと、私は思っている。良書は自分の

思考を映し出し、促す鏡と言える。良書は人生の友である。」