平成11年(1999年)4月に御殿場南高校に赴任し、平成20年(2008年)3月に、
定年を迎えた学校である。創立は昭和38年(1963年)で、私の母校・神奈川県立
新城高校と設立が同じである。
母校への思い入れに近い気持ちの学校である。裾野に居住してからは、赴任を
希望していた学校でもある。最後にその希望が叶ったのである。沼駿地区北部
の普通科進学校である。沼駿地区の中心進学校は、沼津東高校であるが、
その学校に次ぐ位置にある学校である。近年は、女子高の沼津西高校が、
男女共学になり、女子高校の三島北高校も男女共学になり、静岡県に女子高校
が無くなるとともに、中学生の進路希望が変化し、御殿場南高校の生徒の質の
変化をもたらすのである。生徒の質が変化する前の生徒を教えたのだ。
残念ながら、現在は3番手の学校になってしまっている。生徒の質が大きく
変化したと聞いている。友のEさんが非常勤講師を努めているので、変化の
ことを直接聞いているので、確かな情報だ。はっきり言うと、裾野東・西中学
の入学者の動向が下降線のアーカイブに変化し続けてきたことに表れている。
私の定年までの9年間は、授業と生徒との関わりと私の病気との戦いの時期で
ある。
最初の3年間は、副担任であったが、1年、2年、3年と持ち上がり、
授業方法を工夫・改善した時期である。この時期は、教員になってから一番
勉強したかもしれない。前任校では、ゆったりした時間を過ごしたために、
自身の勉強がおろそかになっていた。そのために勉強し教えることで忙しい
日々を送ったとの記憶が強い。教員が勉強で忙しことには何の違和感もなく、
当然のことと考えている。現在の教員の多忙化は、事務的な処理や保護者への
対応に追われるようになったことが主な原因だと考えている。部活動の指導は
以前から変わっていない。専門担当指導員が配置されることは当然の流れと
受け止めているし、すべての学校で実施されることを強く希望している。
この学校では、三島南高校までの同僚との麻雀の人間関係はほとんどない。
前任の御殿場高校の最初の2・3年ぐらいで最後になったとの記憶があるくら
いだ。教員を取り巻く社会状況も変化し、横のつながりはどんどん希薄になっ
て行ったように思う。この学校でのプライベートな付き合いは、転任してから
2・3回、英語科のTさんの関係で誘われて遊んだ記憶がある程度だ。
英語科の研究室では、同世代のAさんや女子教員のTさん、私の息子の世代の、
F君やM子ちゃんとはよく話しをしたと記憶しているが、他の教科の人とはあ
まり話しをしていない。私は、職員室にはほとんどいたことがない、図書課長
をしている時でも、図書室に行くことがほとんどなかったくらいだ。空き時間
は、英語科のパソコンでプリントを作っていたとの記憶だ。一台は、私専用の
パソコンになっていた。
私が授業で工夫したことは、「私の英文法対話」(ブログに掲載)の中の
英文の読み方で書いたフレーズリーディングを導入したことだ。英語をフレーズ
(語句のまとまり)ごとに読み下す方法で、生徒に斜線を入れるように指示して
その読み方に慣らせる方法を取った。また、そのフレーズごとに意味を捉え、
音読することを重視した。プリントを作って、分かりやすい授業を心がけたつも
りだ。教科書及び教材のレベルが高くなっているので、自分が消化していないと
教えることはできない。私は教師用のマニュアルは、参考程度に見ることはあっ
ても、利用することはなかった。定期試験の問題作りで、応用長文は内容のある
ものを選んで出題した。生徒は敏感で、その長文問題を楽しみにしている生徒も
いたくらいだ。また、2年目になって初めてブロック体で板書するようになった。
それまでの教師生活はすべて筆記体での板書だった。ブロック体への要望があっ
たことは知っていたが変えることはなかった。その変化も生徒は見ているようだ
った。「先生のブロック体は筆記体に近い」と言っていたけれども、「先生も努
力しているんだ」とも1人の生徒は言っていた。生徒とともに勉強しながら教え
て、進学校の授業指導を確立したのが最初の3年間だと言えると思う。