1992年(平成4年)に、御殿場高校に転勤になった。私の家の近くを

国道246号線が開通してまもない頃で、御殿場へ向かう通勤の車もまだほと

んど走っていなかったと記憶している。学校まで30分で行くことができた。

裾野に居住するようになってから、御殿場への転勤は自然な流れであろうと

思っていた。御殿場高校は創立が古く伝統のある学校であったが、1963年

に普通科が独立し、御殿場南高校が新設されるまでは、御殿場地区の中心の学

校であった。私が赴任した時は、商業科4クラスと家政科2クラスの実業高校

であった。私は、実業専門高校は初めての経験で、進学指導的な教科指導では

通用しないことは、赴任前から承知していた。三島南高校の商業科で教えた経

験から、ある程度の予測はしていた。1年目は、2年の商業科の副担任で、

担任のクラス運営は難しかったようだ。私は、副担任の立場では、クラス指導

で口を出すことはなかった。担任は副担任が口を出すことを嫌うものだ。アド

バイスを求められない限りは口を出すことはない。

この後、翌年は担任をすることになるが、その後は定年まで担任をすることは

なかったので、副担任としてのクラスへの特別な関わりをしなかったと言って

もいいと思う。基本的には、クラス運営は担任がするもので、副担任は求めら

れない限り、口を出すべきではないと考えていたからである。私が担任をして

いた時に、先輩教員からクラス運営のことで、口を出された経験もない。

学校の教育方針の中で、各分掌、学年の指導方針の下で、クラス運営がなされ

るもので、担任が勝手に自分の考えで行うものではないことは当然のことであ

る。しかし、不思議と担任の個性、カラーがクラスに反映されるものだ。

ここが担任の面白さなのだ。担任とクラスの生徒の織りなすカラーは、独特の

ものができるものだ。教師の力量によるところが大きいと思っている。したが

って、私の場合は、クラス運営と授業は車の両輪であるので、どちらか一方が

うまくいかないと、指導が成り立たなくなる。授業を持たずに担任をすること

は、私にはできないのだ。前述した三島南高校で担任を引き受けた時も同じで

ある。私は、クラスの授業をやりやすくする努力を優先したと言っても過言で

はない。生徒同士の情報は速いものだ。担任のクラスでの授業がうまくいかな

ければ、他のクラスでの授業がうまくいくはずがないのだ。

この御殿場高校は、私の赴任時は、3年生の家政科の女子クラスに問題があっ

たように記憶している。直接授業に行っていなかったので、生徒の印象からの

ことだが、キャバクラの女の感じのする生徒がかなりいたように思う。

私が副担任のクラスは、人間関係が分かれていて、担任との関係もうまくいっ

ていたとは思えなかった。若い担任のO君は他の教員との人間関係もうまくい

ってはいなかったように思う。管理職とは特にうまくいっていなかったとの印

象が強い。そのために、2年担任終了次に転勤になった。このようなケースは

普通ではない。2年の担任は持ち上がって、3年の担任になって、その学年の

生徒を卒業させるのが通例である。管理職はO君を転出させたのだ。そのため

に、3年の担任のポストが一つ空いてしまった。私は家政科の担任を依頼され

たが、それは断った。2年次に家政科の授業を持っていなかったからである。

O君の抜けた商業科の担任を引き受けることになった。この時点で、私が一番

年長の担任になったが、特別な印象は残っていないのが事実である。クラスに

まとまりがなかったことは確かだったと思う。卒業させたクラスの割には、

印象に残っていないのはどうしてなのかわからないが、生徒との触れ合いがし

っかりとできなかったとの反省はある。教師と生徒の間に相性があるというこ

とだ。それが人間の関係ということになる。人間関係が良好か否かで、クラス

運営も大きく影響を受けることになり、お互いの記憶も残らないということで

はないかと感じる。お互いの「心の壁」を壊すことができなかった。