再度学校の話しに戻すことにする。私が、ワープロに触れるようなったのは、
この学校にいる時で、英語科の主任として英語科専用のワープロを導入したの
がきっかけだった。職員室に置いたのだが、英語科には使う教員がいなかった。
だから私が使わないと格好がつかなかった。とはいえ私は全くの機械音痴であ
る。操作がわからないし、説明書を読んでもわからない。当時は数学のNさん
が進路課長を務めていて、私も進路課に所属していたので、このNさんに教わ
った。彼はワープロを使ってはいなかったが、パソコンを使っていた。原理は
同じだと言って、教えてくれた。そのために、1週間の間空き時間にはワープ
ロに向かっていた。それで何とかプリントや試験問題の作成ができるようにな
った。後にワープロからパソコンへと移行することになるのだが。
進路課と言えば、この学校の進路課長の仕事は大変だったように思う。進学と
就職の両方の指導責任を担っていたからだ。それぞれの出張も多かったようだ。
私もこの学校にいる時が最も出張が多かったと記憶している。教科での出張も
含めての話しだが。東京に行ったこともあるし、名古屋にも行ったこともある。
静岡市内への出張も多かったと記憶している。
嫌な記憶として、3年の男子クラスを持っていた時に、保護者の父親に教育
委員会に訴えられたことがある。教育委員会から校長に問い合わせがあり、
校長室に呼び出され、事情聴取を受けたのである。その出来事を簡単に書いて
おくと、その生徒は希望先の会社の校内選考で落ちた。しかし、その父親がコ
ネでその会社の人事担当に採用依頼をしていたようだ。その人事担当は学校か
ら推薦があれば、採用すると答えていたようで、学校には特別推薦枠を設けて
は来なかったのが真実である。会社によっては、学校への推薦依頼とは別に、
特別推薦枠を設けているケースがあった。その場合は会社から生徒を指名して
いた。この生徒の場合は会社からの指名はなかった。父親はこの事実を知らさ
れていなかったようで、私が推薦しないが故にその会社に入れなかったと誤解
したようだ。私が校内選考で入らなかったことまた特別枠に入っていないこと
を何度説明しても納得してもらえなかった。父親は自分のコネが効くと堅く信
じていたようだ。そのために、責任を私に求めてきた。人事担当者にも確認し
たが、特別推薦枠を設けてはいないとのことだった。この頃から「モンスター
ペアレント」の言葉がメディアに取り上げられるようになったと記憶している。
私が教務課に所属した時に、研修担当になり、初任者の研修指導の担当にな
った。英語科の2人の初任者の研修を担当した。正式に初任者研修が始まる前
の試行期間だった。年間60時間の校内研修で、30時間が教科研修だった。
A教頭は授業外の30時間を担当した。その60時間の記録は女子のMさんが
細かくノートに記録を取っていたので、ずいぶん真面目に研修をしたなと、
今でも思っている。これほど真面目な研修を行った例は県下でも珍しかったよ
うだ。形式的に済ませた学校が多いと聞いている。この研修担当の仕事が、
現在の研修課の始まりでもある。研修課の業務内容も拡大していくことになる。
私は8年が経過した時点で転勤を考えていたが、英語科でリーダーシップを
取れる教員がいなかった。校長には、私の後任になる教員が必要だと要望した。
初任者研修の加配措置で英語科教員が増員されたと同時にUさんが転任して来
た。私より2歳若かった。彼はここを転任してから教頭に、その後校長になって
定年を迎えた教員である。私はUさんが来てくれたので、転勤できる条件が整い、
平成3(1991)年には転勤の話しが具体化した。その時に、北駿の普通高校と
の話しがあり、その話しは何とか理由をつけて断った。そのために、その年の転勤
は無くなった。翌年に御殿場高校へ転勤となった。人事に関しては、年末に希望
調査が行なわれ、校長との面接がある。人事権は校長にあるので、県教育委員会
との交渉は校長の職務であるが、交渉内容は校長次第である。校長の教員評価が
異動希望を左右すると言えるだろう。
ともかく34歳から44歳までの10年間、この学校でお世話になった。公私ともに
大変な期間だった。父は平成2年3月26日に亡くなった。私の父に対する長男
の役割を終えたのである。この葬儀では、父のことを触れた挨拶ができなかった
ことを覚えている。頭の中が真っ白になって何も浮かんでこなかった。色々な意味
で、思い出の深い10年間だったと記憶している。