私たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、人や物を比べている。

比べることの是非ではないが、執着するほと比べる必要があるのか、疑問に

感じることが多い。基本的には、比べる必要がないと考えているにもかかわら

ずやはり比べてしまう。人間の持つ特性であろうか。本来条件が異なるものを

同じ基準で測ることはできないことだ。それはわかっているはずなのに。

最近の自分の体験では、中学の二人講師の授業を参観させてもらったが、

意識しなくても自然に比べていることに気付いた。共通点をあえて言えば、中学

1年生の英語の授業ということだけである。しかし生徒は異なっているので、

共通点は全くないのだ。従って、比べることができないと考えることが正しい。

二人の講師の性別、年齢、キャリアも異なるし、「個性」も違うことにもっと

目を向けるべきだったと反省している。人のアイデンティティと言うべき

「個性」の良い部分をいかに伸ばしていくかが課題と言える。プラス志向が

大切ということだ。

 妻から聞いた話しであるが、私の孫のことだ。二人とも全く性格が違う。

翔は甘やかされ、大事に育てれたので、「甘えん坊」である。煌は翔とは周り

からの扱われ方が違い、「勝ち気」な子だ。物欲があまりない。しかし何でも

「私もやる」と言ってやりたがる。翔は慎重で、自分ができそうにないと思う

ことはやろうとしない。どういうわけで野球をしたいと思ったかはわからない

が、野球が好きなことは確かだ。私も子どもの頃野球をしていたが、練習は嫌

いだった。試合に出てプレーすることが好きだった。そのための基礎・基本と

なる練習は嫌いではなかったが、長距離を走らされるのが嫌いだった。足腰を

鍛えるには走らなければならないのだが。短距離を走ることは好きなほうだっ

た。リレーは好きだった。得意、不得意はつきものだ。不得意なことは嫌いに

なるのが普通だと言える。短距離と言っても、野球は直線を走るわけではない。

外野ならば、ボールをいかに直線的に追うことができるか。走塁の場合は、

走るタイミングやベースランニングの技術が必要とされる。陸上の短距離走と

は違う。

妹の煌は翔の真似をしながら学習している。言うことは一人前の大人と同じだ。

今では、翔は口では煌に勝てなくなっている。二人の特性が違うので、比較す

る意味がない。とかく親は子供を比較して物を言うが、比較すること事態が間

違いだと気付いていない。比較されて劣っていると言われたほうが「心」に傷

がつく。心の傷はなかなか自分の力だけでは治らない。心のケアが必要となる。

傷口が広がると、不登校や家庭内暴力にもなっていく。子どもを比較して見て

はいけないと、親は自分自身に言い聞かせるべきである。一人の「人格」とし

て認めなけれいけないということになる。これは普遍的な」原理」だと私は考

えている。また、親の考え方を子どもに押し付けてはいけない。これも「原理」

と言える。

煌はバスケットボールをやりたいようだ。このきっかけも想像がつかない。

翔もチームプレーを学ぶことで、ずいぶんと成長している。チームプレーの

スポーツの良さだと思っている。指導者の存在は大きい。

話しが本質論へといきそれてしまったが、近所には、孫とほとんど同じくらいの

小学生が3人いる。その祖父母や母親が、子や孫を比較して話すことを耳に

している。私の孫がけなされているのではなく、ほめられているのだから、

悪い気はしないが、傍目と中から見るのとではかなり違うものだ。誰でも褒め

られれば嬉しいものだ。子どもは褒めて伸ばしていくものだ。本質的には大人

も変わらない。

<山本五十六名言>」からの引用。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

まさに、親、教育者、指導者が肝に銘じる言葉である。人がどうすれば動くのか

を見事に言い表わしている。

他人と比べてどうのこうの言っても、「マイナスになることはあってもプラスに

なることはない」ということだ。他人の幸福を羨んでも幸福にはなれないし、

他人の不幸を喜んでも惨めになるだけだ。自分も他人と比べる必要もないし、

他人のことも比べるべきではないと、私は思う。