「教育とは何か」を折に触れて考えることほぼ50年になる。

「教」とは教えることであるが、「何のため」に、「何を」教えるのか。

「育」とは育てることであるが、人を「どのように」育てるのか。

教育の目的は、人を「自立した人間」にするために、基礎知識を教え、社会で

「生きて行く力」を育てることではないかと私は考えている。

教育の前提として、一人ひとりが異なる「人格」を持ち、「個性」を持って

いることを認識しなければならない。この点では、物作りとは本質的に異なる。

教育は「人作り」である。画一的な方法はなじまないと言える。だが、共通の

基礎となる知識は大事である。この部分を個別的に教えることは不可能に近い。

特権階級の子弟のみにしかできない。いわゆる個人教授である。

一般には「学校」という教育機関がその役目を担っている。学校には、ハード

としての環境と、ソフトとしての教員がいる。環境は大事であるが、さらに

大事なのは教える人、つまり教員である。教員こそ最大の教育環境であると

考えている。教員はその「使命」を自覚すべきだと考える。その使命とは、

「生徒のために」自分は何をすべきかを考え、試行錯誤しながら教育実践して

いくことになるが、答えはないし、完成もない。人間に完成がないのと同じだ

と考えているからだ。この点では、物作りとは根本的に異なる。物作りは製品

化して初めて価値がある。しかし、人間を製品化することはできない。

それ故に、画一的な教育や一部のエリートを育成するような教育には反対する

立場にいるのが私だ。学校教育に携わった人間であるから、矛盾点はよくわか

ているつもりだ。知識偏重の教育となり、受験では、偏差値が重視されている

のが現実の教育であり、家庭も社会もその流れの中に入っていて、疑問を感じ

ていない人があまりにも多いのだ。私のような考え方は、少数であり、異端と

も取られる傾向にあることも十分承知している。私が常に思うのだが、「多数」

が正しいのであろうか。多数が正しいとは言えないのが事実である。自分で

物事を考えて判断できる人が少ないが故に、多数に従っていると言ったら言い

過ぎになるのだろうか。「寄らば大樹の陰」「長い物には巻かれろ」と、意識

の有無にかかわらず行動している人が多いのではないだろうか。

科学が進歩し、AI(人工知能)が人間に近づいてきているのが今日の社会だ。

「人間とは何か」が問われている時代に変化している。「人間らしさ」とは。

「幸福」とは。「平和」とは。人が生きることの意味を考える必要があるので

はないか。これらのテーマは教育のテーマであるべきことだ。英語の言葉に、

A man's worth lies not in what he has but in what he is. とある。

普通の和訳は、「人間の価値は、持っている物にあるのではなく、存在にある」

であるが、持っている物とは、名誉、地位、財産と解釈できる。what he is の

解釈が難しい。「人間の存在」とは「人間そのもの」「人間自身」「人間性」

「人柄」の解釈が成り立つ。これからの時代を考えると「人間力」が私の解釈

となる。簡単に言うと、「人間の価値は、人間力にある」と私は考えるが、

みなさんはどう思われますか。人間力は、全体的な総合力なので、部分的なも

のではない。知識や技術及び技能があることを言うのではなくて、人間として

の「心」を持っていることに尽きると考える。その上で、知識や技術及び技能

をもち、生きる知恵がある人と定義する。エンドレスの向上心と継続する努力

が求められる。米国の発明王のトーマス・エジソン(1847-1931)は、

Genius is one percent inspiration and ninety-ninepercent perspiration. 

と言っている。「天才とは努力の異名なり」との言葉もある。人間に内在する

「可能性」は無限であると信じている。私のような何の才能もない凡才の結論

である。その無限の可能性を秘めた子どもや生徒を教育するのが教師である。

とてもやりがいのある「使命」を持っていることにプライドを持ち、子どもや

生徒のために、同じ目線から見守りながら、共に学び、教師も成長していかな

ければならない。偏差値教育から「人間教育」へと転換していかなければなら

ないと私は考える。