「この道」とは、選択肢のない道である。「私の人生の記憶」に自分史を書い
てあるが、幼少の頃、母が病気がちのために、埼玉の祖父母の家に預けられた
記憶が強く残っている。唯一の友が、雑種の犬であり、寂しさを救ってくれた。
9歳の誕生日を過ぎた夜中に母は病死した。母の笑顔を知らないのが私だ。
その母を裾野市営墓地に移して、土へと帰した。日本一の富士山を眺望する場
所だ。60年の歳月が流れた。私の気持ちの一つの大きな整理もついた。母も
喜んでくれていることだろう。そう信じている。これからは頻繁に会いにいけ
る。母のことを想うと涙が止まらない私だ。妻に話すと、「お父さんも歳を取
ったね」と言いながら、耳を傾けてくれている。私の最大の理解者だ。
話しがそれてしまったが、私は小学校の時に得意だった教科はない。中学に入
り、初めて英語に触れた。何もわからなかったが、同じスタートラインに並んだ
と思ったのが、英語を勉強する「動機」であったと思う。他の科目ではすでに学
力差がついていた。その差を埋めることは難しかった。スタートが同じならば
競争できると思ったのだ。その当時は「競争意識」が強かったのが私だ。性格
的には「負けず嫌い」だ。中学では英語でもトップレベルで競うのはなかなか
厳しかった。3年生では、英語と社会科が5の成績だったが、総合力では一定
の順位から上がることはできなかった。2科目だけでは勝負にならない。
高校は2番手の新設高校に行くことを余儀なくされた。高校では英語だけは、
トップの成績を取ると決め、1年の中間試験で実現した。英語の勉強しかしな
かった。トップ争いを2年の2学期まで続けたが、「井の中の蛙大海を知らず」
との気持ちになり、校内で競う意識が無くなった。受験へとシフトを変えた。
これから私の苦しみが始まった。難しい問題に取り組むために、力不足を感じ
るとともに、焦りのようなものが出てきて、授業の予習もやらなくなったために、
校内の成績も相当落ちてしまった。自信を失い、不安を抱えたまま勉強するしか
なかった。自分の勉強に自信を取り戻すのにまる1年かかった。
3年生になってから、受験できる学校を探した。国公立で家から通えることが
親から与えられた条件だ。この条件と英語と社会の政経の2科目で勝負すること
しかできないのが私だった。タイプは完全な私立文系なのだ。国公立は無理だと
言えるのが事実だった。最低で5教5科目だが、普通は5教6科目だった。平均
的にできる生徒が国立向きと言えた。理系科目の理科と数学が苦手な私だ。
国語は普通だと思っていた。社会科は歴史が弱かった。年号、人名や地名を覚
えることができない。日本史は更に漢字が覚えられない。世界史はカタカナが
苦手だ。基礎知識を学ぶことができない。英語が苦手な人が単語を覚えられな
いのと同じことだ。歴史的な流れを知ることに、関心があるのは今でも変わって
はいない。従って、5教6科目の国立は除外する。探していく過程で、4教科
4科目で受験可能な大学が横浜市大だった。かつ文科は、英語が200点と配
点が高い。4科目合計が500点だった。その文科の中に、外国語過程があり、
国際関係専攻のコースがあった。「ここしかない」との志望意識だ。「この道」
の始まりとなったのだ。