私の元同僚のI・Mさんの言葉の授業、授業ノート・第三集「言葉と暴力」

序・・・言葉の授業・・・から引用。

人は自分の言葉を持たなくてはならない。

人は自分の物語を持たなくてはならない。

なぜなら、他人の言葉や他人の物語で世界に触れることはできないから。

先日に続き、今日もI・Mさんと話しをした。先日私と話しをして元気が出た

と携帯にかかってきた。会って話しをすることに。

話しのポイントを言葉にすると「オリジナリティ」の有無となる。彼と私の共

鳴する点は、この一点ではないだろうか。人のものを真似して学び取る言葉や

人生ではない。自分独自の「学び」であり、自分独自の人生の「道」である。

従って、自分だけの人生の物語を持っている。Iさんと私の人生は全く異なっ

ている。彼は独身で人生を過ごしてきた。私は結婚し、子どもを育て、今では

二人の孫がいる。今は二人とも退職して、時間があることが共通点だ。

彼は国語の教員として、私は英語の教員として歩いた教員人生だ。彼との出会

いは、御殿場南高校で、耐震工事のために、教科準備室が一緒になったことで

始まり、お互いに感じるものがあって、話しをするようになった。定期試験の

時には、箱根の「山のホテル」のラウンジで、モンブランのケーキを食べてお

茶をしたことが3回ほどある。教育の話しがメインであったと記憶している。

お互いに困難な学校を経験し、その体験から出てくる言葉である。二人にとっ

て、「理解」を共有することは難しいことではない。受験指導ではない、独自

の指導方法で生徒と接してきたのだ。彼は、生徒に言葉を通じて、短歌や文を

書かせる方法を取って来たと聞く。私は自分という人間の「心」を開くことで、

「ありのまま」に「正直に、自分らしく」を信条に、わかりやすい授業をする

努力を続けてきた。真面目な余談や雑談を交えての授業であった。生徒をいか

に「惹きつけるか」が勝負と言える。その点では、Iさんも同じである。教科

書にとらわれず、マニュアルに頼らずに、自分の解釈で授業を構成することで

も一致しているのではないか。Iさんは教科書を離れて授業をしたと言ってい

る。私は教科書を教えるのではなく、教科書で教える、つまり、「目的」と

「手段」が異なるということになる。進学校では、受験指導(目的化)は欠か

せないが、進学校以外では、受験指導は何の役にも立たない。進学校だけを歩

いた教員には絶対に理解することはできない。一部のエリート教員を除いて、

様々な学校を経験させられるので、自分の独自の指導方法を持っていないと、

教員としては生きてはいけないのだが。そのあたりを適当にうまくやっている

教員の数は実に多いのだ。従って、自分の「言葉」で生徒を「納得」させるこ

とはできない。規則とルールとの言葉で、押し付けるような指導しかできない。

そのことに何の疑問も抱いていないのだ。多くの教員は、県教委や校長に言わ

れた通りに、真面目に夜遅くまで教材の研究をし、様々な報告に追われ、パソ

コンに向かって日々を過ごしている。「生徒と触れ合う」ことを求めて教員に

なった人は多いが、それがなかなかできない環境になっていることも事実であ

る。「教員の多忙化」が言われてからかなり時間が経過している。「ものを言

わぬ教員」が増えていることは重大な問題なのだ。ディベートも授業に取り入

れられるようになっているが、教員自身が議論をできないのが現実だ。最初に

「結論ありき」であることが問題だとの認識がどのくらいあるだろうか。結論

に至る「プロセス」が大事なのだ。議論のための議論は無意味であるが、議論

をする過程で、問題点を「共有」し共に考え、「合意形成」に向けて努力する

ことが大事であり、「納得」することで、能動的な姿勢が生まれてくると考え

るのが私である。みんなで議論して決定した結論に従うのは当然なことである。

決定権を持つ校長は当然理解していなければならないことである。文科省や

県教委に唯々諾々として従っているような校長では役に立たないのだ。校長も

自身の言葉で語り、教員の先頭に立ってリードする立場にある。教職員の

「活力」が教育組織及び一人ひとりの教員の「教育力」となることを自覚して

ほしい。人間の武器は「言葉」であり、言葉を行動に為す「人間力」にあると

私は考えている。自分の物語を紡ぐ人生でありたいと願う。