物の「価値」とは何だろう。体調が良くなってから、心が開き外へと向いて
いる。また、行動へと。外へ出て行くと、色々な人と出会う。初対面の人とも
平気で声をかけて話しをするようになっている。話しのきっかけは様々である
が、こちらの心を開けば、話しをしてコミュニケーションを取ることができる。
飲食店に入り、お客さんが少ないと、主人に話しかけると、結構話しができる
ものだ。話題は相手によって違ってくるが、「人との触れ合い」が楽しいと感
じる。そういう中で食べ物や飲み物を頂くと、さらに気持ちが良くなる。
店の雰囲気、料理の味、語らいを考慮した場合に、気持ち良く代金を支払うこ
とができる。これを価値があるというのではないか。「美」「利」「善」の価値を
唱えた偉大な人が日本にもいた。新渡戸稲造の友人でもある牧口常三郎
である。難しい理論をここで書くつもりはない。この2か月の間、少し小物を買
い過ぎていると自分でも感じている。生来、買い物が好きな人間だ。衝動買い
をして失敗したことも多くある。無駄使いしたことになる。つまりその買い物
には価値がなかったということだ。あれこれ見ながら選んで買い物をする楽し
みが、私の心に戻ってきたのだ。退職してから4年以上が過ぎている。着る物
も普段着で過ごす日々だ。普段着との言葉は死語になっているとは思う。
私の世代は、出かける時には、「よそゆき」の言葉があった。外出の時は、
普段とちがう服装をするという意識があった。貧しかった故に、一枚の
「よそゆき」が大事、つまり、物に価値があったということだ。車社会の発展
に伴い、「よそゆき」と普段着の区別がなくなっていった。日本が豊かな経済
へと成長したことに伴う変化ではあるのだが。それに伴い、意識しなくても
価値観が「多様化」したのだ、「よそゆき」の感覚はなくなっているのだろ
うか。なくなってはいない。特別な場合に限定されてきていると言える。
子供の入学式が典型的な例だろう。フォーマルな場合には昔と変化はないが、
日常的には、カジュアルなスタイルが広がったと言えばいいのかもしれない。
ファッションが年齢に関係なくなっている。その人に合えば何でも有りと言え
る。そこに価値観なり、価値判断が出てくる。簡単に言うと。衣類に関しては、
それを身につけることで、「心が豊か」に感じられれば価値があるということ
ではないか。今の私はそのように感じている。飲食にしても、ある店に行って、
支払う代金に納得がいく、いわゆる「リーズナブル」だと感じられれば、価値
があると私は考えるが、あなたはどう考えますか。