「評価」について考えてみたい。24日に、評価する「立場」になったこと
で、改めて考えてみた。私たちは、日常的に評価し、評価されている。あまり
意識していないかもしれないが、ごく普通に思っていることだ。評価は主観的
なものだと言ってもいいだろう。自分の価値基準によって、また感情的側面か
ら、人を評価しているだけでなく、飲食の時や、店の評価は自然に行っている。
駄目だと思えば二度と飲んだり食べたりしないし、店にも行くことはない。
他のことでも同じことがあてはまる。口に出して言うか言わないかであって、
誰もが心の中で思ったり感じていることだ。皆さんはどう思いますか?私の言
っていることが間違っていますか?
「評価する」を英語では、evaluate と言うが、value(価値)化すると言うこ
とだ。その名詞が、evaluation となる。人はどうしても自分の知識や経験を
基に考えて判断することしかできないので、「主観的」な価値判断になるのは
当然な事だと思っている。人事も同じである。
教育の世界での評価は、簡単に言うと、「成績」についてであるが、「絶対的
評価」と「相対的評価」がある。どちらにせよ、主観的な要素を入れずに、
客観的に評価することが正しいとされている。テストや試験を点数のまま評価
することが、「絶対的評価」で、集団の中での位置づけが「相対的評価」とな
る。「絶対的評価」から「相対的評価」へ、また「絶対的評価」へ移行し、
現在は「相対的絶対評価」となっているようだ。実に分かりにくく煩雑になっ
ているのが教育現場である。教員も様々な場面で生徒一人ひとりを評価してい
かなけれなならない。きちんと「記録」に残して置かなければならない時代に
なっている、私の教員時代の30年間は記録ではなく「記憶」の中にあった。
テストの成績で5段階(学年)の評価をつければよかったが、日本経済のバブル
が崩壊し、日本の経済が下降し、デフレ時代に入ったことと密接につながって
いるのだが。「効率化」が焦点になり「自己評価」や「学校評価」も入ってき
て、生徒への評価も「テストの点数」だけではない要素を入れなけれならなく
なった。評価の材料が多く必要になり、そのことに客観性をもたせるために、
「点数化」することが行なわれるようになった。コンピュータの導入による
「事務作業」ができるようになってからのことだ。仕事の量が減るどころか
増えていったのである。更に「報告」を求めれる時代へと変わっていった。
その変化の様子を見ている中で、私は退職を迎えた。「教員の多忙化」の理由
の一つが事務の「効率化」であり、その背景に「コスト削減」する「教育行政」
があるということだ。この本質的な視点を抜きに「現代の教育」問題を語るこ
とができないと言ってもいい。このように書いていることが、私の「教育への
評価」となっている。教育現場を離れて4年以上が経っているが、本質は変わ
ってはいない。すべて人のやることには「共通性」がある。自分の利害や利益
が優先されるが、それを口に出して言うことはない。当然ながら、建前と本音
は違うが、「建前」」で物事が行われているのが現実の社会と言える。
人は「等身大」の評価を受けることができれば納得する。過大な評価も過小評
価も受け入れにくいが、本人が「自己評価」ができていなければ、過大なのか、
過小なのかがわからない。一般的には、人は自己評価が甘い故に人の過大な
評価に気付いていない。イエスマンが好まれるわけだ。逆の立場に立つと、
イエスマンを側近にするのが人の常だと言える。このような人の評価は間違っ
ているのだろうかと自問自答する。自己評価のキーワードは「原点回帰」だと
思うが、あなたはどう思われますか?現在のわたしは、「目的論」と「本質論」
の視点から、物事を思索している。目的がいかに「手段化」しているのかと思
わざるをえないのだ。評価のポイントは「目的」に対して、どうなのかである
ことを忘れてはならないと、最近つくづく感じている。