無二の親友の出来事にショックを受けた。学校の具体的な「組織図」を通し

て、「権力」とは何かを考えることになった。とても難しいテーマなので、

きちんと整理できるかどうかは自信がないが、黙っている訳にはいかないと

いうのが、私の率直な気持ちだ、私が経験した「教育の世界」からアプローチ

する。「おかしいことをおかしい」と根拠を示して主張することは間違ってい

るのであろうか。私は学校という組織の中で、若い頃から発言してきた。

公式な場で、発言するには「勇気」と「覚悟」がいる。組合組織に入っていな

い人間が、管理職側(執行部)にもついていない人間が、発言することは自分

のスタンスを公言することになるので、誰もが心の中で思っていても躊躇する。

当然だが、「一匹狼」になる。「孤立感」を味わう経験を何度もしている。

多数に否定される。しっかり議論して「納得」したうえで「生徒指導」に当た

りたいと、私は考えていた。議論の結果の決定には従うということだ。

何でも反対のスタンスを取ったわけではない。

「教育の世界」を具体的に書くことにする。会議の最小の単位は「教科会議」

だ。ここで教科書の採択や、教科としての指導方針が決まる。このまとめ役が

「教科主任」だ。学校によってさまざまだが、輪番制で決めたり、教科内で

適当な人を人選する場合や、校長が任命する場合のそれぞれの学校を経験して

きた。私は30代中頃から40代の後半まで「英語科主任」を努めてきた回数

は多い。具体的には、三島南高校、御殿場高校でそれぞれ数年間、「新任教員

指導担当」も務めてきた。最後の御殿場南高校では、任命制で私が英語科主任

をすることはなかったが、中堅の教科主任のS・M君からは「陰の主任」と言

われたくらいだ。この時期は図書課長をしていた。図書課長は前の御殿場高校

で経験している。私は学年主任の経験はない。学年には、学年会議があり、

他の学年と指導方法で違いが生じ、対立することも普通にあったことだ。

独自のカラーを出そうとするが故に。主任のカラーが良く出てくる。

「上昇志向」の学年主任は「実績」を残そうとする。校務分掌に各課がある。

中心者が課長である。分掌のまとめ役の位置づけだが、「学校運営」に関わる。

各学年主任、各課長、事務長、教頭、副校長、校長で「運営委員会」を構成す

る。総務課、教務課、生徒課、進路課、図書課、研修課、保健課はすべての

学校にある。3学年の主任を含め10人の教諭がいるので、運営委員会は最低

14人はいる。学校によってはもう一つの課もあるようだ。司会者は副校長で

ある。議案を検討し「職員会議」に提出する。「職員会議」で検討されて、

校長が「決定」する。世間一般では誤解があるようなので書くが、

「職員会議」は議決を取らない。職員の議決で決定されるのではない。

決定権は「校長」にある。ここで、校長の「人物」と「教育観」が表れてくる。

学校における権力者は「校長」となる。教職員の人事権は「校長」にある。

校内人事は、副校長にあるといってもいいが、校長の「了解」を得ているし、

校長の「意向」を反映する人事を行う。校長の副校長への「評価」へとつながる。

今の教頭は、以前の教頭(今の副校長)とは違い、授業を持ち、「指導担当」

の立場になる。以前は単独教頭から「複数教頭制」になり、総括担当教頭と

指導担当教頭があり、給与で4%の差があった。お互いに仲が悪かった。

今は教頭の上に副校長がある。序列化が明確になっている。教頭から副校長に、

その中から校長へと昇格する。上司の校長の推薦がなければ昇格はできない。

教頭になっても副校長で終わる人はかなりいるということだ。まれだが教頭で

終わる人もいる。すべて校長が「教育委員会」への推薦となる。教頭に一番近

い教諭が「教務課長」だ。「教務課長」が学校運営の実務に携わっているからだ。

「教務課長」の経験がない校長は、「教務課長」に頼るケースが多い。

当然のことだが、校長はその教務課長を管理職に推薦する。学校の上部組織が

「教育委員会」となる。以前は「教育委員長」と「教育長」とに分かれていた

が、今は一本化された。以前は、教育長を除く教育委員長と3人の教育委員は

非常勤であったために、実質的な教育行政の責任者は「教育長」に権限があり、

現在の「教育長」は以前の教育委員長を兼ねたので、教育行政の「権力者」と

しての立場が強くなっている。教育行政は知事部局の「一般行政」とは異なる。

知事も簡単に口を挟むことはできない。「教育委員会」の上部が「文部科学省」

となる。ここまでくれば後のことはわかると思う。大臣は「総理大臣」が任命

し、内閣改造の度に変わっているので、ほとんど影響力がない。

「エリート官僚」のトップ(事務次官)が実質的な権力者と言っても過言では

ない。日本は「官僚国家」と言ってもいい。日本だけではないが。優秀な頭脳

が集まっている。彼らが実質的に日本を運営している。同じようなことが大き

な組織に当てはまる。トップの指導力が問われるが、官僚機構がしっかりして

いれば、トップが交代しても影響はあまりない。政治の世界は安倍一強である。

政権支持率が高いと、自民党の派閥の長も何も言えないのが今の日本の政治状

況だ。リベラル派と言われている「宏池会」も黙っている。

「官僚機構」と独裁に近い「政権」に問題があるのだ。異論を唱えることがで

きないこと事態が問題なのだ。共産党、共産主義、社会主義、王族国家のよう

な独裁政権には、「自由」と「人権」が保障されていない。このような政党や

国家を、「民主主義」と呼ぶことはできない。このことに異論がある人は限ら

れていると思っている。「国民主権」とは、民つまり「庶民」である。

「庶民・国民にサービスを提供するのが、サーバントである。

public servant(公務員)とは、教員、警察官、自衛官、役人、官僚、政治家

等が含まれるのだ。彼らは「誰のために」仕事をすべきかは明確ではないか。

あくまでもサーバントであり、「奉仕者」の使命をになっているのだ。

こんな基本的なことが分からない人間が多すぎる。リーダーは英語で leader 

で「先頭に立つ人」であり、「導く人」である。そのような人を「指導者」と

呼ぶのだ。指導者は権力を持っているから「権力者」でもある。国民、住民、

組織の人のための「サービス」の視点を失えば、「独裁者」となる。

北朝鮮が典型的な例だが、反対する者を「排除」することになる。自由や人権

を尊重しない国や組織の「執行部」を断じて認めることはできないと言うのが

私の「スタンス」である。

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」」との名言は、英国の歴史家

ジョン=アクトンの言葉だ。

Power tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely.が原文だ。