吉高教員の生活面のことを書いておく。吉高教員の間で、一番盛んだった
のは、囲碁である。放課後になると、あちこちで、くず箱の上に碁盤を並べて、
多くの教員が囲碁をやっていた。その数は、毎日10人以上で、囲碁人口は
最大で、20人近くいたらしい。組合員の人たちが、特に多かったようだ。
私は、囲碁を知らなかったので、何が面白くてやっているのか、理解できな
かったし、関心もなかった。私が囲碁を覚えたいと思ったのは、ずっと後の
ことだった。30歳を超えて、5年目頃だったと記憶している。その動機は
前述した小林先生にあった。先生は、囲碁の中心的存在で、一番上のランク
にいたようだ。小林先生と親しくさせてもらったのは、どの時期の頃からは、
覚えていないが、吉高生活の後半で、一緒に麻雀をやるようになってからと
の記憶である。先生は麻雀も強かった。
私は、職員会議で、学校運営に批判的なことも発言した。そのせいか、教員
の間で孤立感をあじあう時期があった。同時に着任したKさんたちは、管理
職に協力する側にいた。管理職側と組合員では意見の対立が強く、しばしば
感情的になる。お互いに自分たちの主張を譲らない。私の発言は、組合の人
たちに近い発言になっていたと言える。私は組合に入っていないし、組合に
対しても批判的な意見を持っていた。前任校の下田南高校の全日制の組合員
の言動には問題を感じていた経緯があったからだが。
教育の基本である政治的中立に疑問を感じさせる発言を耳にしていたからだ。
簡単に言うと、政治的な意見を生徒にあおるような教員がいた。
吉高に転勤してから、そんな疑問を感じたことはない。学校によって違うのか、
人によって違うのかはわからなかったが。
一般的には、組合は、学校運営には野党的なスタンスを取っていた。学校によ
っては、職員間の対立を生じ、生徒に悪影響を与えているように聞いていた。
小林先生も組合員だった。孤立感をあじわっていた時期に精神的に支えてもら
ったと記憶している。私が囲碁を覚えたいと思ったのは、麻雀以外にも小林
先生と共有するものを持ちたいとの動機であった。囲碁を覚える環境は整って
いた。3歳年上のTさんが、囲碁を覚え始めてまもないことも幸いした。
二人で本を読んで学習しながら、碁を打つようになった。囲碁ができるように
なるのに、1年間くらいかかったと思う。その間に何人かの同僚に相手をして
もらった。先に始めていた2・3人の同僚よりも上達したようだ。
次の赴任校(三島南高校)でも囲碁の相手はいた。今は、囲碁が私の趣味で、
インターネットで碁をやっている。最近は「囲碁クエスト」の13路盤で打っ
ている。その辺りのことはブログに詳しく書いている。
吉高に転勤してから、年齢が近い教員の中で、よく麻雀をやった。当時は、
定期試験の前日は半日で授業が終わった。その日の午後や、土曜日の午後、
定期試験中の午後に麻雀をやっていた。私にとって、最大の娯楽であった。
また、戦後生まれの若手の教員が、6・7人いて、「戦後会」を作って、
何回かドライブに出かけたりした。スキーを覚えたのも吉高の時である。
同僚の教員とその子どもを連れて、野沢温泉の上の平に行ったことを記憶して
いる。この時に、亮(長男)は小学生になっていたので、連れて行った。
誠(次男)は置いていかれて怒っていたと妻が言っていた。誠には悪いことを
したなと記憶している。また、当時の吉高で盛んに行われていたのは、硬式
テニスである。数人の教員が、授業の合間に、テニスコートに行っていた。
放課後は部活動があるので、もちろんコートを使うことができない。
私は中学時代に軟式テニスの経験があるが、私が硬式テニスをやったのは、
3年生を持った4年目の2月である。3年生は家庭学習に入ったので、授業が
なくなり、時間の余裕ができたからである。何人の教員がやっていたか覚えて
いないが、盛んだったと記憶している。授業の合間での教員のテニスは、職員
会議で議論になったようだが、記憶に残っていない。とにかく、吉高生活では、
教員で一緒に遊ぶ機会が多かったことは、確かだ。私の場合は、麻雀であった。
それで人間関係ができていたように思う。お世話になった小林先生のことをも
う少し付けくわえておきたい。先生は東京の出身で、開成中学、海軍兵学校、
戦後東京教育大学出身のエリートとも言える人である。教師としての最初の
赴任校は、滋賀県の彦根で、その後静岡県に来て、磐田南高校、韮山高校を経
て吉原高校に飛ばされたと伺った。吉原高校での小林先生との「出会い」は
私の教員生活の中で、最大のものとなった。出合った時の先生の年齢は、
47歳くらいと記憶しているが、前述したように、寡黙な紳士のイメージで
すぐに親しくして頂いたわけではない。私が吉原高校に転勤した最初の3学年
の主任だったと記憶しているが、この頃にお話した記憶はない。私が進路課に
所属した時に、進路課長が小林先生であった。この頃からの公私にわたりお付
き合いして頂いたように記憶している。思い出としては、何人かと信州松本へ
蕎麦を食べに行ったり、越前にカニを食べに行ったりしたこと。二人で信州に
旅行し、開田高原で先生がスケッチされていた情景が思い出される。岐阜高山
から下呂温泉に宿泊したこと。私の転任後に理科の教員と一緒に鳥取の砂丘、
伊勢志摩半島へのドライブ旅行等に声をかけて頂いてご一緒できた思いでは
深く残っている。2005年に他界されるまで、30年ほどの長きにわたり
御世話になったことに感謝の意は尽くしきれない。
吉原高校でもう一つ記しておくことは、吉原高校OB囲碁会である。この
囲碁会も、毎年6月の第4土曜日に、芝川町(現在は富士市)で開催され、
現在もなお続いている。17人ほどの会であったが、この10年で5人の方が
他界された。ここにも高齢化が進んでいるが、今年は12人全員が出席して
いる。前回の幹事の提案かあ、「吉原高校OB職員囲碁同好会」から
「吉原高校OB職員囲碁お楽しみ会」と名前を変更している。70歳未満は
私を含めて3人になってしまった。どこまでこの会を続けられるかはわから
ないが、年に一度のお楽しみを失いたくないとの思いだ。不思議なもので、
お互いに昔ながらの話し方になってしまう。
吉原高校で担任として2度目の卒業生を出す前の年に転勤希望を出した。
その時点では、長男は伝法小学校に通っていて、次男が幼稚園の年長のクラス
で翌年小学校への入学の時期だった。1981年の12月のことである。
次の転勤先で定住地を決めようと思い、転勤希望をだした。静岡県の東部を
希望していたが、特にこだわっていたわけではないが、移動の経過の中で、
転勤はないと言われていたので、3月中頃の内示の時は、放課後のんびりと
職員室内の休養室で碁を打っていた。その時に教頭に呼ばれて、校長室へ行く
ようにとのことだった。校長は私に転勤の内示をし、三島南高校だと言われた。
すぐに小林先生はじめ何人かの同僚に話し、家に電話をかけた。妻は幼稚園で
「先生の転勤はありますか」と聞かれ、「今年はないそうです」と話しをして
家に帰った直後のことのようであった。妻も驚いていた。同僚から、大変な
学校に転勤だねと言われた。当時の三島南高校はそれ程評判が悪かった学校
である。息子の転校、入学の手続き、引越しの準備に追われる年度末との記憶
が残っている。年度初めに、三島へ引っ越して行くことになる。1982年
のことである。