33HRのクラスのことを書いておく。以前に持った文系のクラスとは、

明らかに雰囲気が違っていた。性格の良い子がたくさんいたとの印象が残って

いる。学力的には以前の32HRのクラスより劣ることは否定できないが、

生徒は伸び伸びしていたように思う。私自身怒ったことは一度もないと記憶し

ているが。真面目で手のかからない生徒たちであった。学習面では物足りなく

感じたことも確かである。受験意識が実に希薄であった。結果的には30人以

上が推薦で短大に進学した。個々の推薦書の文を書くのに苦労した記憶が強い。

この生徒たちは地元志向が強かった。この点でも以前のクラスとは違う。4年

生大学志望は少なく、短大志望が多く、日大短大、常葉短大、東海短大、

英和女短大の県内主要短大へと進学した。東京の大学に進学した生徒の記憶が

薄い。私自身も、このクラスでは特に緊張感もなく楽しく生徒との触れ合いが

できた時期だと思っている。教師としてのゆとりも出て来ていた。クラスの

リーダーはE・Mであった。生徒も私も楽しい時間を共有したとの思いである。

その証として、この生徒たちの「クラス会(同窓会)」は5年に1度開催され、

現在まで続いている。3年前のクラス会には私は出席できなかった。体調が悪

かった故である。本当に申し訳なかったと今でも思っている。それまでは毎回

出席していたのに。毎回の出席者は10人台であるが、これほど続いているの

は珍しいのではないだろうか。幹事の引継ぎがきちんと行われていることに感

謝の気持ちでいる。次回は2年後になるのだろうが、体調には不安を抱えてい

るが、出席できることを願っている。

このクラス会で、私にとって印象深いのは、私が50歳になった夏のことであ

る。HAPPY BIRTHDAY 50(吉原高校33HR同窓生)の色紙をもらったのだ。

今でも私の手元に大切にある。一人一人のメッセージが懐かしく私の心に届い

てくる。30人以上が書いてくれている。参考に数名のメッセージを載せるこ

とにする。

「50才のお誕生日おめでとうございます。50才になられた相川先生にお会

いしたかったです。今でも先生はあの頃のまま変わらないのでしょう。受験で

ピリピリしがちな3年生の時、比較的気分的に楽にクラスの中で過ごす事が出

来たのは、先生のおかげかなと思っています」(K・K)。「先生50才です

か?いつもパイロットシャツに低音の声で英語を教えていただいていた頃の

先生のイメージで記憶は止まっています。私もそれなりに年を重ね変わりまし

たが先生のその後も・・・再会が楽しみです」(S・M)。卒業して16年

その頃の相川先生は丁度今の私たち同じ34才だったんですネ。あの頃の先生

に負けない様私も色々なことにチャレンジしてがんばっていきたいと思います」

(T・K)。50才おめでとうございます。相川先生のひょうひょうとしたと

ころがいいナと思います。これからも変わらずステキでいて下さい」(M・M)。

おめでとうございます。こうして先生が同窓会に必ずお出かけ下さるのは私達

かわいい教え子に対して”深い愛情”があるからなのだ!と勝手に考えており

ますがきっとそうですよね先生!これからもどうぞお体に気を付けて・・・

かわいい(あくまでも)教え子たちを末永くよろしく」(S・I)。

二人の幹事ありがとう。この年から19年が経過した。この生徒たちも、今で

は53歳になる。どんな人生を送ったのだろうか。これからの人生も長い。

振り返った時に、「良い人生」であったと思えるように願っている。

私は人生の最終章を生きている。平均寿命までは10年程だ。「生まれて来て

よかった」と死に際に思える時を迎えたい。余談を入れさせてもらう。

昨日、三島佐野美術館「横山大観・大気を描く」を観てきた。晩年85歳作品

「霊峰飛鶴」に美を感じた。私の富士観の中で、「富士を描くということは、

富士にうつる自分の心を描くことだ。心とは、ひっきょう人格にほかならぬ。

それはまた気品であり、気はくである。富士を描くということは、つまり己を

描くことである。己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描く

には理想をもって描かなければならぬ。私の富士も決して名画とは思わぬが、

しかし、描くかぎり、全身全霊をうちこんで描いている」(横山大観のことば

から抜粋)私の人生観は「心こそ大切なれ」。この言葉を、最近裾野市営墓地

に移設したお墓(富士山を望む)の墓誌に刻む。信条は「自分らしく正直に」。

この「心」を生涯持ち続けたいというのが私の気持ちだ。