私の部屋の物入れから、「過去の写真」を出して、整理して処分しようと

思い始めた。普段、過去の写真を見ることはほとんどない。FBに投稿し始め

てから適当な写真はないかなと探してみるようになった。懐かしく思い出され

る写真もあれば、完全に忘れている写真もある。人生も来年で70年を迎える。

振り返れば様々な記憶が残っている。その記憶を「私の人生の記憶」として2

年前に書いた。今年になってその改訂版を書きだした。その記憶と写真の記録

が一致するわけではない。「忘却とは忘れさることなり」、写真は薄れている

記憶を蘇らせてくれる。だから心に残っている写真が見つかると嬉しいものだ。

 最近、やっと両親のお墓を裾野に移設し納骨でき、一つの「気持ちの整理」

がついてよかったと思っている。時代の変化と共に、お墓に対する考え方も変

わってきた。高齢社会になり、日本の家族制度の「文化」が変化している。

欧米の個人主義の文化が優るとは思わないが、様々な分野でも「継承者」がい

なくなっているのが現実だ。私には、長男と次男がいる。長男には男と女の子

どもがいる。長男の子どもの頃の写真を見ると、孫がよく似ていると感じる。

不思議なものだ。写真の記録の面白さなのだろう。次男は独身のままだ。

自分の若い頃の写真を見ていると、ふと次男の顔が浮かんでくる。次男は顔が

私に似ている。次男もそう思っている。親子、孫はつながっている。だが時代

の違いは大きい。孫が私のような年齢になったらどんな時代になっているのだ

ろう。良い時代であってほしいと願っているのだが。

今回、親の写真の一部を除いて処分した。よく旅行に出かけていたようだ。

ツアーの記念写真がたくさんあった。親の思い出の写真は、私の思い出にはな

らないので、見ることはない。私の子どもの頃や息子の子どもの頃の写真は処

分しにくい。ばらばらになっているので整理しないといけないと思う。ぼけた

写真は処分できたが、保留した写真が多くある。職場の同僚との写真も残って

いる。見ているとその頃のことが思い出される。生徒の写真も多く残っている。

私の記憶の回路が断線してきているので、名前がなかなか思い出せない。見て

いると顔と名前がすぐに浮かんでくる生徒とそうでない生徒と別れてしまう。

長く記憶に残っている生徒とは話しをしていたのだろう。成績の良し悪しには

関係がない。というよりも成績のことはほとんど覚えていない。卒業後クラス

会で会っていると、顔は生徒の頃とダブって記憶に残っているが、名前が出て

こなくなってしまった。この何年も自分であきれるくらい人の名前や地名が出

てこない。それもよく知っているはずなのに。またふと思い出すが。「脳力」

まで衰えていることにがっかりする。脳は「映像化」しておけば、記憶として

蘇ってくるのだろう。写真として残す意味は「思い出」の記録にあるのだろう。

私がこの世からいなくなれば、私との思い出に残る写真だけ残してくれればい

い。私の歩んだ人生の記録として、ブログに書き残している。不要になったら

破棄してくれればいい。息子たちや孫に、親や祖父がどんな人生を生きたのか

を正直に残して置きたいのが本当の気持ちだ。写真ではわからないことを文章

にしている。私にとって、「アメブログ」は文章で残す「記録」の意味だ。

文を書くことは頭を使うので、「脳力」の衰えに役立つのではと信じつつ。