昭和54(1979)年、教員生活10年目、吉高5年目、31歳の私は、

何の不安もなく、二度目の1年生の担任(14HR)を持った。しかし、

学校を取り巻く環境が大きく変化していた。前年に同じ市内に、共学の普通

高校の富士東高校が新設されたのである。吉高の生徒の質の変化がもたらされ

た。当時の中学生の学校意識が変わったのである。以前の上位の女子生徒が、

富士東高校に進学した。その影響をもろに受けたのが吉原高校であった。

具体的な言い方をすれば、1クラス分の数の生徒が入れ替わった。つまり2

クラスの数の生徒の質が以前と変わったということだ。大きな質の変化が起こ

ったことを意味する。また、学校でも、校舎の改築が始まったのである。

木造校舎を解体し、新校舎の建設が始まった。新校舎が完成した時には、私は

吉高を転勤になった後であった。私が在任していた最後の頃に、校舎の半分が

できた。

私は、担任を持ったクラスとあと2クラスの英語の授業を担当した。その1ク

ラス(12HR)の授業は、プレハブ校舎だった。忘れられない思い出だ。

またこのクラスで、女子高の怖さを自ら経験した。私が担当したクラスの中に、

中間試験のできが悪かった生徒たちがいた。私は、そのような生徒たちを集め

て、放課後に補習をした。その中に、12HRのK・Hがいた。彼女はその補

習で、私に対する印象がまったく変わったそうだ。「先生の最初の印象は怖い

先生」と、入学前からあったそうだ。確かに、「先生はとっつきにくく、怖そ

う」との声は、私の耳に入っていた。これは、私の服装、顔つき、態度の印象

からきているようだ。このようなイメージは学生時代からつきまとっていた。

実際、最初から好印象を持たれることは少なかった。イメージとしてはマイナ

スだ。事実はイメージと中味が違うようだ。親友からそう聞いていた。

K子は、補習の後、私の印象が変わり、親しみを感じるようになったようだ。

そのため、放課後、頻繁に職員室に来ては、私の話しを喜んで聞いていた。

例外的な記憶がある。授業で教えたこともない他学年の生徒のことだ。接点は

必修クラブだけだった。Fという生徒で、放課後毎日のように一人で職員室に

来ていた。その様子を見ている同級生は全く理解できないことを耳にした。

私にも理解できなかったのだが。普通女子生徒は一人でくることはない。仲の

よい友だちと一緒にくるものだ。K子と一緒にきていたのはY・Yという生徒

だ。その生徒は自分からあまり話しをしなかった。私とK子が話しているのを

聞いていることが多かった。ある時に時間が遅くなり、二人を車で送って行っ

た記憶がある。K子は、吉高で一番話しをした生徒だ。2年生の時は、自発的

に英語の教科委員になった。彼女を通じて、多くの生徒の情報を得た。3年生

の時は、彼女のクラスの授業を担当していなかったが、話しをしによく来てい

た。女子高の怖さを知った出来事は、この生徒と関係している。私の記憶では、

彼女が1年生の2学期の始めの土曜日の放課後に、職員室で話している場面を

見た同じクラスの生徒A子がいた。A子はクラスで影響力のある生徒だった。

授業で教室に入ったとき、いつもと雰囲気が違っていた。後ろの黒板には、

「泥棒猫」と書いてあった。それからの授業はやりにくくてたまらなかった。

平然として授業を進めるしかなかったが、内心の動揺は大きく、辛抱の一字だ

った。K子とA子のグループの対立は、クラスを巻き込み、女性の担任を悩ま

せた。この出来事は、生涯忘れられない記憶となっている。学年が変わるまで、

針の蓆の心境だったとの苦い記憶でもある。

この学年では、分掌で進路を担当した。この年度から進路課に所属した。この

時の進路課長が、前述した小林数樹先生であった。私もクラスだけでなく、

学年全体のことを考える立場になっていた。学年の進路のことは、私に任され

るようになり、生徒に対しても、学年集会等で、進路に関する話しをするよう

になった。1年、2年と継続していく過程で、担任をしているクラスの生徒だ

けでなく、授業に行っていないクラスの生徒でも、「進路の先生」のイメージ

が定着したように記憶している。「進路を考えることは、自分の将来の生き方

を考えるのが基本」が私の持論であった。進路は文字通りこれからの進む道の

ことだが、高校では、進学か就職かの大きな選択となる。人生は選択の連続と

も言えるのだが。その時の相談は、教師の大事な職務である。

 教員の世界では、年度末の3月の中頃に、新年度の校内人事のための分掌希

望調査が行われる。若い頃は希望がなかなか通らない。昔は担任希望さえ通ら

なかったと聞いていた。学校によっては、担任をやりたくてもなかなかさせて

もらえないような時代であった。もちろんトップの進学校での話しではあった

のだが。私は、3年生担任で、進路課、英語部を希望した。教頭から、生徒課

で、就職・専門学校志望のクラスの担任をやってもらいたい、と内示を受けた。

どうしても納得できなかった。教育は、「継続して指導するのが基本」との考

え方からのものだ。そのことを小林先生に話しをした。黙って聞いてくれた。

小林先生は、寡黙なタイプの人で、論理的思考力に優れた頭のいい先生で、

誠実な人柄であった。私が尊敬していた先生である。私は、教員生活の中で、

同僚に対して、「~さん」、時に後輩に対しては「~君」と呼んでいた。

小林先生に対して、「小林さん」と呼んだことはない。プライベートなつきあ

いでも、常に小林先生と呼んでいた。小林先生は、約20歳年下の私にさえ、

「相川先生」と言う方だった。この小林先生が、校内人事を検討・承認する

運営委員会で、私の人事に関して、頑として認めなかった。そのために、その

後の職員会議が大幅に遅れた。運営委員会がどんな会議かを知るのは、私が、

後の御殿場高校で、図書課長になってからである。意見を言うことはできるが、

校長が認めた教頭の人事案を覆すことはできない。小林先生は、それをやった

のである。職員会議にでてきた人事案は、私は、進路課で、文系進学クラスの

担任になっていた。私は先生にお願いしたわけではない。先生の判断で行なっ

たことではあるが、小林先生の信念の行動は、生涯忘れることはない。

この人事に関してのK子から生徒の噂を聞いた。その噂では、国立・4年生大

学志望クラスの担任と生徒は予想していたようだ。私もその希望を持っていた。

女子高ほど担任が誰になるかの関心が高い学校はない。トップ校の生徒には

関心がなようだ。教師への感情や期待度が異なるからだ。

人事は、人のやることで、人事を担当する人(教頭)の見方で決まってしまう。

最終的には校長が決めるが。誤解のないように付け加えておくと、私はクラス

を区別する意識は全くなかった。国立・4年生大学志望クラスを教える経験が

なかったから、経験したいと思ったに過ぎないし、それを口にしたことはない。

後で記すが、私が担任した33HRは、成績よりも人柄が良い生徒が多く、

負担が軽かったと言える。以前の32HRで経験しているからなのだが。

教師も生徒もお互いに選ぶことはできないもので、偶然の出合いのようなもの

だ。卒業後に再会の機会はほとんどなく、記憶として残るだけである。その記

憶も風化していくものだ。このブログを読んで、懐かしい記憶として蘇ってく

れれば嬉しい。