この学年の生徒の担任をして、楽だったとの記憶が残っているのが23HR
の時だ。優秀で個性的な生徒が集まったクラスである。委員長と副委員長に対
する私の信頼が強かった。帰りのホームルームの前に、職員室にいる私のとこ
ろに来るように指示してあった。この学校では、各クラスの役割分担として、
教科委員が決まっていた。教科委員は授業担当の先生のところへ、授業前に
「御用聞き」に行って先生の指示を受けなければならなかった。定時制ではな
かったことだ。実際には、特別の指示をするわけではないが、係の生徒とのコ
ミュニケーションの機会になることが多い。私は、教科委員と同じような役割
を委員長と副委員長に求めた。その時に、伝達事項をクラスに伝えるように指
示して、帰りのホームルームに行かないことが何回もあったと記憶している。
週一回のロングホームルームでも同じようなやり方をしていたことがしばしば
であった。今ではとても考えられないし、大きな問題になってしまう。職務の
怠慢であり、無責任な手抜きと思われてもしょうがない。実際に「手抜き」と
の見方に反論するつもりもない。このやり方に対する生徒の捉え方は私の耳に
届いてはいないが、のびのびとした自由な雰囲気のクラスだったように記憶し
ている。私が担任したクラスに共通して言えるのは、「のびのびしている」
ことにある。生徒の自由度が他のクラスよりも高かく、生徒からの反発をほと
んど感じたことはない。教師が独自のカラーを出せた時代だった。とても個性
の強い英語のTさんは、教科委員が御用聞きに来なかったために、一か月以上
そのクラスの授業に行かなかった。生徒がどんなに謝ってもがんとして受けつ
けなかった。今では、大きな問題になって、懲戒処分の対象になっていたかも
しれないようなことだ。今とは時代が違うということだ。この出来事で、私が
感心したことは、生徒に対してである。授業に担当の先生に来てもらえなくて
困った生徒たちは、その時間自分たちで学習し、他のクラスの授業のノートを
借りたりし、協力して定期試験に備えたのだ。その結果、他のクラスよりも平
均点が高かったと聞いた。それ程質の高い生徒たちだった。Tさんの真意が何
だったのかを聞くことはなかったが、ここまでやる教員もいなかったのだが。
私の4年目は、3年生の文系3クラスの1クラス(32HR)の担任をする
ことになった。1年目に、副担任で3年生を担当したクラスとは、集団の質が
違い、受験して進学を目指すクラスだった。私にとって、このようなクラスの
担任をするのは、初めての経験となった。中心が進学指導であり、授業はそれ
に対応するものとなる。いわゆる「受験教育」であった。私は、この経験を通
して「進学指導」の方法を身につけた。文系の多くの生徒は、短大進学を希望し
ていた。女子生徒の短大志向は当時の社会状況を反映していた。短大を卒業し
て就職し、結婚して退社(寿退社と言われた)するのが一般的であった。地方
の生徒は東京への「憧れ」が強かった。私のクラスの生徒も東京への希望が多
かったと記憶している。当時人気のある短大は、青山学院女子短大(通称青短)
と学習院女子短大(俗称赤短)であった。東京女子短大と共に難関の私立短大
だった。この時代の女子生徒は短大志向が強く、4年生大学を上回っていたと
記憶している。したがって、一部の短大は難易度が高かった。国立及び4年生
大学志望の生徒のクラスは2クラスあった。私は、この学校で、この2クラス
の授業を担当することはなかった。成績が上位の生徒たちが集まっていたこと
は確かだ。この学校の伝統的なシステムでもあった。担任としては、クラスの
生徒との個人面接から始まって、夏休みに入ってからの親を交えた3者面談、
冬休みの3者面談、2月の試験前後の面接を行うのが通例であった。個人的な
相談及び指導は別である。簡単に言うと、各生徒の進路希望、勉強の状況、親
の考え方、成績、模擬試験の結果等を考慮して受験校を決めていく指導方法で
ある。一番困ったことは、親子の進路に対する考え方の違いである。このケー
スの指導が最も難しい。私たち教師は、助言はできても、立ち入ることはでき
ない。進む道の経済的負担と責任は親にあるからだ。ある親は、日曜日に、私
の家に相談に来たことがある。担任には、親(通常母親)との関わりがある。
親からの信頼を得られるかどうかも大切なことだった。入学や卒業の時には、
生徒だけでなく、親の前で話しをしなければならなかった。その内容は教師に
よって違うことは当然である。教師の個性、人間性が表れるものだ。私とこの
学年の生徒との年齢差は13歳であった。当然だが、親は私より年上で40台
の年齢だったので、10歳以上の開きがあった。私は、3年間担任を持ち、
全日制で初めて卒業生を送り出した。その経験が、教師としての私を一歩成長
させた。女子高での生徒との関わり方、授業方法を身につけ、精神的な余裕が
でてきたように感じている。学年での役割の仕事や、部活動での生徒との関わ
りは、ほとんど記憶に残っていない。一人のバレーボール部の生徒(I・T)
が、「先生、たまには来てね」と言った言葉は忘れていない。とても聡明な良
い生徒であった。
ここで私の特に記憶に残っている進路指導を書いておく。三つのエピソードを
記す。一つはS・Mの生徒との話しだ。彼女の受験希望は、京都女子大、同女
子短大だった。とても意志が強く、頑張る生徒だった。私は二つとも合否のボ
ーダーラインと判断し、そのことを伝えた。私は、授業を通じて生徒の英語の
力を判断し、志望校への受験が可能かどうか、模試のデータを基に分析して合
格の可能性を判断していた。今の時代は、コンピュータのデータ資料で進路指
導が行われている。退職する前の学校では、三者面談で、パソコンを見なが
ら話しをしている姿に違和感を覚えた。私のようなアナログ指導にはデジタル
指導を好まない。私の授業データ(頭の中)と年3回の模試の平均値をベース
とする「カンピュータ」と言えるだろう。経験に基づいたカンは人間固有のも
のだ。彼女の第一希望は短大だったが、大学に進学した。後で試験結果が送ら
れてきた。私の予想通りだった。1点が境目だった。短大は1点足りなかった。
大学は1点上回ったことを知った。もちろん本人は知らない。文字通り、1点
に泣き、1点に笑う勝負の世界と同じだった。
二つ目は、M・Cの生徒の話しだ。彼女は性格は良いのだが、自分を見つめる
ことができなかった。10校受験してすべて不合格だった。私のアドバイスを
受け入れてくれなかった。2年浪人したようだ。専門学校に進んだことを彼女
の手紙で知った。「先生の言っていたことがやっとわかりました」と書いてあ
った。自己を等身大で見ることはなかなかできないことだ。
三つめは、S・Yの話しだ。陸上をやり運動能力に優れ、リーダーシップもあ
るが、学力は高くなかった。勉強もしていなかっただろう。私は、受験では難
しいと判断した。東京のある短大へと推薦で押し込んだ。時効としてあえて書
いておくが、進路課長とも相談し、成績のかさ上げをし(文書偽造)、推薦状
を書いた。面接の機会を与えたかった。面接では大丈夫と確信していた。短大
では、英語ネイティブの講師とも仲良くなり、英語でコミュニケーションが取
れて楽しいと聞いた。対応能力に優れた記憶に残る生徒だった。
この学年の同窓会は、1997(平成9)年11月に吉原浅間神社の「樟泉閣」
を会場に、学年主任と担任5,6人を含め多くの卒業生が来ていたことを記憶
している。部活動の生徒たちが挨拶に来てくれた。2年生のクラスの生徒とも
話しをした。
その数年後、32HRのクラス会も吉原市内で行われている。10数人が参加し
たとの記憶だ。この教え子たちも56歳になっている。どんな人生を歩んだので
あろうか。一人だけは、FBの友達としてつながっている。「明るい笑顔」が
記憶として残っている教え子だ。
の時だ。優秀で個性的な生徒が集まったクラスである。委員長と副委員長に対
する私の信頼が強かった。帰りのホームルームの前に、職員室にいる私のとこ
ろに来るように指示してあった。この学校では、各クラスの役割分担として、
教科委員が決まっていた。教科委員は授業担当の先生のところへ、授業前に
「御用聞き」に行って先生の指示を受けなければならなかった。定時制ではな
かったことだ。実際には、特別の指示をするわけではないが、係の生徒とのコ
ミュニケーションの機会になることが多い。私は、教科委員と同じような役割
を委員長と副委員長に求めた。その時に、伝達事項をクラスに伝えるように指
示して、帰りのホームルームに行かないことが何回もあったと記憶している。
週一回のロングホームルームでも同じようなやり方をしていたことがしばしば
であった。今ではとても考えられないし、大きな問題になってしまう。職務の
怠慢であり、無責任な手抜きと思われてもしょうがない。実際に「手抜き」と
の見方に反論するつもりもない。このやり方に対する生徒の捉え方は私の耳に
届いてはいないが、のびのびとした自由な雰囲気のクラスだったように記憶し
ている。私が担任したクラスに共通して言えるのは、「のびのびしている」
ことにある。生徒の自由度が他のクラスよりも高かく、生徒からの反発をほと
んど感じたことはない。教師が独自のカラーを出せた時代だった。とても個性
の強い英語のTさんは、教科委員が御用聞きに来なかったために、一か月以上
そのクラスの授業に行かなかった。生徒がどんなに謝ってもがんとして受けつ
けなかった。今では、大きな問題になって、懲戒処分の対象になっていたかも
しれないようなことだ。今とは時代が違うということだ。この出来事で、私が
感心したことは、生徒に対してである。授業に担当の先生に来てもらえなくて
困った生徒たちは、その時間自分たちで学習し、他のクラスの授業のノートを
借りたりし、協力して定期試験に備えたのだ。その結果、他のクラスよりも平
均点が高かったと聞いた。それ程質の高い生徒たちだった。Tさんの真意が何
だったのかを聞くことはなかったが、ここまでやる教員もいなかったのだが。
私の4年目は、3年生の文系3クラスの1クラス(32HR)の担任をする
ことになった。1年目に、副担任で3年生を担当したクラスとは、集団の質が
違い、受験して進学を目指すクラスだった。私にとって、このようなクラスの
担任をするのは、初めての経験となった。中心が進学指導であり、授業はそれ
に対応するものとなる。いわゆる「受験教育」であった。私は、この経験を通
して「進学指導」の方法を身につけた。文系の多くの生徒は、短大進学を希望し
ていた。女子生徒の短大志向は当時の社会状況を反映していた。短大を卒業し
て就職し、結婚して退社(寿退社と言われた)するのが一般的であった。地方
の生徒は東京への「憧れ」が強かった。私のクラスの生徒も東京への希望が多
かったと記憶している。当時人気のある短大は、青山学院女子短大(通称青短)
と学習院女子短大(俗称赤短)であった。東京女子短大と共に難関の私立短大
だった。この時代の女子生徒は短大志向が強く、4年生大学を上回っていたと
記憶している。したがって、一部の短大は難易度が高かった。国立及び4年生
大学志望の生徒のクラスは2クラスあった。私は、この学校で、この2クラス
の授業を担当することはなかった。成績が上位の生徒たちが集まっていたこと
は確かだ。この学校の伝統的なシステムでもあった。担任としては、クラスの
生徒との個人面接から始まって、夏休みに入ってからの親を交えた3者面談、
冬休みの3者面談、2月の試験前後の面接を行うのが通例であった。個人的な
相談及び指導は別である。簡単に言うと、各生徒の進路希望、勉強の状況、親
の考え方、成績、模擬試験の結果等を考慮して受験校を決めていく指導方法で
ある。一番困ったことは、親子の進路に対する考え方の違いである。このケー
スの指導が最も難しい。私たち教師は、助言はできても、立ち入ることはでき
ない。進む道の経済的負担と責任は親にあるからだ。ある親は、日曜日に、私
の家に相談に来たことがある。担任には、親(通常母親)との関わりがある。
親からの信頼を得られるかどうかも大切なことだった。入学や卒業の時には、
生徒だけでなく、親の前で話しをしなければならなかった。その内容は教師に
よって違うことは当然である。教師の個性、人間性が表れるものだ。私とこの
学年の生徒との年齢差は13歳であった。当然だが、親は私より年上で40台
の年齢だったので、10歳以上の開きがあった。私は、3年間担任を持ち、
全日制で初めて卒業生を送り出した。その経験が、教師としての私を一歩成長
させた。女子高での生徒との関わり方、授業方法を身につけ、精神的な余裕が
でてきたように感じている。学年での役割の仕事や、部活動での生徒との関わ
りは、ほとんど記憶に残っていない。一人のバレーボール部の生徒(I・T)
が、「先生、たまには来てね」と言った言葉は忘れていない。とても聡明な良
い生徒であった。
ここで私の特に記憶に残っている進路指導を書いておく。三つのエピソードを
記す。一つはS・Mの生徒との話しだ。彼女の受験希望は、京都女子大、同女
子短大だった。とても意志が強く、頑張る生徒だった。私は二つとも合否のボ
ーダーラインと判断し、そのことを伝えた。私は、授業を通じて生徒の英語の
力を判断し、志望校への受験が可能かどうか、模試のデータを基に分析して合
格の可能性を判断していた。今の時代は、コンピュータのデータ資料で進路指
導が行われている。退職する前の学校では、三者面談で、パソコンを見なが
ら話しをしている姿に違和感を覚えた。私のようなアナログ指導にはデジタル
指導を好まない。私の授業データ(頭の中)と年3回の模試の平均値をベース
とする「カンピュータ」と言えるだろう。経験に基づいたカンは人間固有のも
のだ。彼女の第一希望は短大だったが、大学に進学した。後で試験結果が送ら
れてきた。私の予想通りだった。1点が境目だった。短大は1点足りなかった。
大学は1点上回ったことを知った。もちろん本人は知らない。文字通り、1点
に泣き、1点に笑う勝負の世界と同じだった。
二つ目は、M・Cの生徒の話しだ。彼女は性格は良いのだが、自分を見つめる
ことができなかった。10校受験してすべて不合格だった。私のアドバイスを
受け入れてくれなかった。2年浪人したようだ。専門学校に進んだことを彼女
の手紙で知った。「先生の言っていたことがやっとわかりました」と書いてあ
った。自己を等身大で見ることはなかなかできないことだ。
三つめは、S・Yの話しだ。陸上をやり運動能力に優れ、リーダーシップもあ
るが、学力は高くなかった。勉強もしていなかっただろう。私は、受験では難
しいと判断した。東京のある短大へと推薦で押し込んだ。時効としてあえて書
いておくが、進路課長とも相談し、成績のかさ上げをし(文書偽造)、推薦状
を書いた。面接の機会を与えたかった。面接では大丈夫と確信していた。短大
では、英語ネイティブの講師とも仲良くなり、英語でコミュニケーションが取
れて楽しいと聞いた。対応能力に優れた記憶に残る生徒だった。
この学年の同窓会は、1997(平成9)年11月に吉原浅間神社の「樟泉閣」
を会場に、学年主任と担任5,6人を含め多くの卒業生が来ていたことを記憶
している。部活動の生徒たちが挨拶に来てくれた。2年生のクラスの生徒とも
話しをした。
その数年後、32HRのクラス会も吉原市内で行われている。10数人が参加し
たとの記憶だ。この教え子たちも56歳になっている。どんな人生を歩んだので
あろうか。一人だけは、FBの友達としてつながっている。「明るい笑顔」が
記憶として残っている教え子だ。