昭和50年(1975年)の4月の始めに、下田市から富士市・吉原へと引
っ越した。転勤先では、車が必要になると思い、同僚で後輩のF君に誘われ、
自動車学校に通い、50年の1月末に免許を取得した。引越しの直前に、定時
制の教え子Y(私のクラスの卒業生)が勤めている会社から、中古車を購入し
た。グリーンの車で30万円だった。その車に妻と亮を乗せて、初めてのドラ
イブになった。引越しの際に、私の教え子たちが手伝ってくれ、吉原まで来て
くれた。私は、初めて天城峠(当時は有料道路)を越えたことが、印象に残っ
ている。吉原でも学校住宅(伝法・三日市)に住むことになった。古い木造の
一戸建てで、敷地に4件が鍵型になっていた。駐車は、縦列に4台並べなけれ
ばならなく、お互いに出入りに気を使い大変だった。妻が言うには、私たちが
入った家には、庭がないために、日当たりが悪く、洗濯ものを干すのに苦労し
たとのことだった。この住宅で7年間暮らした。住宅から学校までは2キロ程
の距離で、通勤は楽だった。近くにスーパーや小学校があり、利便性もよかっ
た。この地で次男が生まれ、長男が小学生になった。
4月の始めに、新任歓迎会があった。私を含めて転任者が4人で、新卒者が
1人だった。どういうわけか、お互いの事前情報から、4人は麻雀をすること
を知っていて、歓迎会が終わると同時に、近くの雀荘を聞いて、麻雀をしたこ
とを記憶している。異例なことだろう。その後、1年間は、同じメンバーでよ
く麻雀をやった。その中の2人が、後に校長になった。数学のKさんと英語の
Tさんだ。その頃、先輩の3人は30代の後半で、私だけが20代の後半であ
った。1年後には同じメンバーで麻雀をやることがなくなったのだが。
学校が始まり、分掌は3年部、総務課、部活動はバスケット部の顧問として
スタートとしたが、学年以外の分掌の記憶は薄い。ともかく、私にとって大切
なのは、授業であった。3年生の副担任(35HR)で、就職・専門学校希望
者の多いクラスの授業を担当することになった。英語の時間が週に6時間で、
3クラス合計18時間を持った。女子高校のもつ独特の雰囲気を感じたが、
生徒の学力は全く想像もつかなかったので、教科書のレベルで推測して、教材
の研究することから始めた。最初の授業は、私自身が緊張していた。教室に入
って、簡単な自己紹介をしてから授業に入る予定にしていたが、最初の時間は、
教科書に触れることはなかった。生徒の関心は、私が独身であるかどうかだっ
た。「先生は、独身ですか」が第一の質問であった。私は外見的には、独身に
見られる27歳の若さだったが、正直に話しをした。妻と2歳の男の子がいて、
6月に二人目が生まれる予定だと言った。その二人目は、次男で6月に生まれ、
「誠」と名前をつけた。誠実な人間に育ってほしいとの願いでつけた名前であ
る。女子高校の生徒は若い独身の先生を期待している。高校生が異性に関心を
もつことは、自然なことであるが、その対象が男子の教員だけということが異
常であると感じた。女子高校の生徒は、男の先生への関心・期待が強いようだ。
ある生徒に、「先生、女子高に長くいたら駄目だよ。3年で転勤したほうがい
いよ」と言われた言葉が、深く記憶として残っている。3年生と私との年齢差
は10歳であった。私の印象では、大人びていて生意気な感じがする生徒が少
なくないとの記憶だ。良い性格の生徒だと感じる女子も多かったが。ともかく
授業が勝負であった。最初は、吉原高校の生徒のレベルを知り、そのレベルに
対応すべく授業をするように努めたが、なかなか難しかった。
当時の吉原高校は、富士地区のトップの進学高校・富士高校の女子生徒に次ぐ
女子が集まってきていた。その中には、富士高校に入れる女子も一部いたよう
だ。私が担当したクラスには、そのレベルの生徒はいなかったが、優秀な生徒
はいた。しかし学習面で努力している生徒は少なかった。受験というモチベー
ションがなかったからだろう。授業は真面目に受けてくれた生徒たちだ。
私は授業の中で、余談・雑談を交えるスタイルをとった。一番反応が大きかっ
たことは、私の恋愛観や妻との出会いと結婚の話しだったと思う。
一般的には、教員はプライベートに関しての話しをしない。教師の立場から話し
をする傾向が強い。目線が生徒の上にあると言える。中には教師は「偉い」と
錯覚している教員がいる。専門の教科で生徒よりも学力が高いというだけのこと
だ。私は定時制での経験から、生徒との関わりで、本音で正直に話すことは、
生徒に受けいれられると感じていた。生徒の学力レベルを知ったのは、定時制の
時と同じように、5月の中間試験の結果からだ。全日制の普通科では、学年で
共通試験を行って評価することが一般的である。吉原高校には、英語科の教員が
7~8人いて、3年生の担当は3人で、交代で試験問題を作成していた。
私は中間試験の時に、英文法の問題を作成した。難しめに作ったとの記憶がある
が、その結果はひどかった。平均点で30点台(100点満点)と記憶している。
生徒の学習と学力に対する認識が甘かったことと、授業内容の反省をしなければ
ならないと感じた。試験は生徒への評価だけではなく、教師の自己評価の機会と
も言える。吉原高校の頃は、授業用のプリントを家でよく作っていた。英文タイ
プライターを使い、手書きのものだ。
この学年で特に印象に残っている二人の生徒(友人関係)がいる。一人の生徒
は、朝私が車を降りて、校舎に入って行くときに、2階から、「相川先生、
おはようございます」と明るく声を掛けてくれた生徒O子である。数年後に、
この生徒の結婚式に招かれ、お祝いのスピーチをしたことを記憶している。
もう一人の生徒は、私のタイプだと感じたN子である。そのように感じた生徒
は、教員生活でただ一人であるが、もちろん私の心の中だけの話しである。
この生徒とはO子の結婚式の時に、再会したが印象は変わらず、素敵な女性に
なっていた。後に知ったことだが、女優の山本みどりがこの学年にいたことを
演劇部の顧問Kさんから聞いた。ともかく私が1年間担当したこの学年の生徒
を通じて、女子高の吉原高校を学習したと言ってもいいだろう。
っ越した。転勤先では、車が必要になると思い、同僚で後輩のF君に誘われ、
自動車学校に通い、50年の1月末に免許を取得した。引越しの直前に、定時
制の教え子Y(私のクラスの卒業生)が勤めている会社から、中古車を購入し
た。グリーンの車で30万円だった。その車に妻と亮を乗せて、初めてのドラ
イブになった。引越しの際に、私の教え子たちが手伝ってくれ、吉原まで来て
くれた。私は、初めて天城峠(当時は有料道路)を越えたことが、印象に残っ
ている。吉原でも学校住宅(伝法・三日市)に住むことになった。古い木造の
一戸建てで、敷地に4件が鍵型になっていた。駐車は、縦列に4台並べなけれ
ばならなく、お互いに出入りに気を使い大変だった。妻が言うには、私たちが
入った家には、庭がないために、日当たりが悪く、洗濯ものを干すのに苦労し
たとのことだった。この住宅で7年間暮らした。住宅から学校までは2キロ程
の距離で、通勤は楽だった。近くにスーパーや小学校があり、利便性もよかっ
た。この地で次男が生まれ、長男が小学生になった。
4月の始めに、新任歓迎会があった。私を含めて転任者が4人で、新卒者が
1人だった。どういうわけか、お互いの事前情報から、4人は麻雀をすること
を知っていて、歓迎会が終わると同時に、近くの雀荘を聞いて、麻雀をしたこ
とを記憶している。異例なことだろう。その後、1年間は、同じメンバーでよ
く麻雀をやった。その中の2人が、後に校長になった。数学のKさんと英語の
Tさんだ。その頃、先輩の3人は30代の後半で、私だけが20代の後半であ
った。1年後には同じメンバーで麻雀をやることがなくなったのだが。
学校が始まり、分掌は3年部、総務課、部活動はバスケット部の顧問として
スタートとしたが、学年以外の分掌の記憶は薄い。ともかく、私にとって大切
なのは、授業であった。3年生の副担任(35HR)で、就職・専門学校希望
者の多いクラスの授業を担当することになった。英語の時間が週に6時間で、
3クラス合計18時間を持った。女子高校のもつ独特の雰囲気を感じたが、
生徒の学力は全く想像もつかなかったので、教科書のレベルで推測して、教材
の研究することから始めた。最初の授業は、私自身が緊張していた。教室に入
って、簡単な自己紹介をしてから授業に入る予定にしていたが、最初の時間は、
教科書に触れることはなかった。生徒の関心は、私が独身であるかどうかだっ
た。「先生は、独身ですか」が第一の質問であった。私は外見的には、独身に
見られる27歳の若さだったが、正直に話しをした。妻と2歳の男の子がいて、
6月に二人目が生まれる予定だと言った。その二人目は、次男で6月に生まれ、
「誠」と名前をつけた。誠実な人間に育ってほしいとの願いでつけた名前であ
る。女子高校の生徒は若い独身の先生を期待している。高校生が異性に関心を
もつことは、自然なことであるが、その対象が男子の教員だけということが異
常であると感じた。女子高校の生徒は、男の先生への関心・期待が強いようだ。
ある生徒に、「先生、女子高に長くいたら駄目だよ。3年で転勤したほうがい
いよ」と言われた言葉が、深く記憶として残っている。3年生と私との年齢差
は10歳であった。私の印象では、大人びていて生意気な感じがする生徒が少
なくないとの記憶だ。良い性格の生徒だと感じる女子も多かったが。ともかく
授業が勝負であった。最初は、吉原高校の生徒のレベルを知り、そのレベルに
対応すべく授業をするように努めたが、なかなか難しかった。
当時の吉原高校は、富士地区のトップの進学高校・富士高校の女子生徒に次ぐ
女子が集まってきていた。その中には、富士高校に入れる女子も一部いたよう
だ。私が担当したクラスには、そのレベルの生徒はいなかったが、優秀な生徒
はいた。しかし学習面で努力している生徒は少なかった。受験というモチベー
ションがなかったからだろう。授業は真面目に受けてくれた生徒たちだ。
私は授業の中で、余談・雑談を交えるスタイルをとった。一番反応が大きかっ
たことは、私の恋愛観や妻との出会いと結婚の話しだったと思う。
一般的には、教員はプライベートに関しての話しをしない。教師の立場から話し
をする傾向が強い。目線が生徒の上にあると言える。中には教師は「偉い」と
錯覚している教員がいる。専門の教科で生徒よりも学力が高いというだけのこと
だ。私は定時制での経験から、生徒との関わりで、本音で正直に話すことは、
生徒に受けいれられると感じていた。生徒の学力レベルを知ったのは、定時制の
時と同じように、5月の中間試験の結果からだ。全日制の普通科では、学年で
共通試験を行って評価することが一般的である。吉原高校には、英語科の教員が
7~8人いて、3年生の担当は3人で、交代で試験問題を作成していた。
私は中間試験の時に、英文法の問題を作成した。難しめに作ったとの記憶がある
が、その結果はひどかった。平均点で30点台(100点満点)と記憶している。
生徒の学習と学力に対する認識が甘かったことと、授業内容の反省をしなければ
ならないと感じた。試験は生徒への評価だけではなく、教師の自己評価の機会と
も言える。吉原高校の頃は、授業用のプリントを家でよく作っていた。英文タイ
プライターを使い、手書きのものだ。
この学年で特に印象に残っている二人の生徒(友人関係)がいる。一人の生徒
は、朝私が車を降りて、校舎に入って行くときに、2階から、「相川先生、
おはようございます」と明るく声を掛けてくれた生徒O子である。数年後に、
この生徒の結婚式に招かれ、お祝いのスピーチをしたことを記憶している。
もう一人の生徒は、私のタイプだと感じたN子である。そのように感じた生徒
は、教員生活でただ一人であるが、もちろん私の心の中だけの話しである。
この生徒とはO子の結婚式の時に、再会したが印象は変わらず、素敵な女性に
なっていた。後に知ったことだが、女優の山本みどりがこの学年にいたことを
演劇部の顧問Kさんから聞いた。ともかく私が1年間担当したこの学年の生徒
を通じて、女子高の吉原高校を学習したと言ってもいいだろう。