私の孫・翔(小・3)は、野球にはまっている。どうして野球に興味を持ち、
始めるようになったのかはわからない。土・日や祝日は、朝から夕方まで野球
漬けだ。野球だけは嫌ではないらしい。試合ができるまでにはもう少し時間が
かかるが、来年にはできるかもしれない。甘えん坊で寂しがりやの孫だが、
凝り性だ。凝り性は私と同じである。私と孫とは同じ干支で60歳違う。
私の子どもの頃とは全く環境も時代が違う。今は様々なスポーツができる環境
になり、スポーツ科学も進み道具も進化している。しかし、時間的にも金銭的
にも親の負担が大きい。私の世代の親とも、私が親の時代とも全く違う。
少子化が進み子どもが中心の生活となり、両親が働く家庭はごく普通になって
いる。長男の家庭もそうだ。また離婚の増加とともに、片親の家庭も多くなっ
ているのが社会の現状だ。経済的格差社会になっている。便利な社会だが、
大変な時代だと言える。
私の子ども時代を振り返ると、男の子のメインスポーツは、野球とソフトボ
ールだった。草原の空き地でよく遊んでいた。ボール、グローブ、バットさえ
あればよかった。道具を共有し、10人も集まれば三角ベースで試合をしてい
た。小学校の球技大会には、野球があった。野球は4年生からだったと記憶し
ているが。私の楽しみはこの球技大会だった。その活動の様子から子供会の
野球に誘われた。5年生と6年生の2年間は野球漬けだった。私は練習があま
り好きではなく、特にランニングが嫌いだった。しかし、基礎練習は真面目に
やっていたと記憶している。ともかく試合をすることが楽しかった。試合をす
るために野球をやっていた。当時は、各地区で2勝すれば川崎市の大会に出る
ことができた。市の大会で優勝するには、4勝しなければならなかった。
決勝戦は川崎球場で行なわれた。当時の川崎球場は、横浜・DeNAの前身で
ある大洋ホエールズの本拠地で、プロ野球で使われていた。高校生の夢の舞台
が甲子園であるように、川崎の子ども球児の夢の舞台が川崎球場だった。
公式試合での出場は果たすことができなかった。しかし、一度だけ川崎球場で
試合をしたことがある。地区の代表でオール川崎チームでリトルチームと対戦
した時だ。川崎球場のマウンドで投げたのが思い出になっている。記憶に残っ
ている思い出としては、5年生の時に、1回戦で4打数4安打、2回戦で4打
数3安打で、4打席目は3塁強襲安打が3塁手のエラーと判定された。また
その3打席目のレフトオーバーは忘れることはない。ホームランにはならなか
ったが、私にとっては、バットが振り抜けた最高のヒットだった。打った衝撃
を感じない打球と言えばいいのだろう。2年間でただ一度の経験である。この
大会では、準決勝と3位決定戦ともにノーヒットだった。チームも2試合とも
に負けた。6年生の時はエースとして市の大会に出たが、雨の中での試合にな
り、ぬかるんだコンディションのために、大事な場面で外野手のエラーが出て
初戦で敗退した。打たれたからではなく、負け方が残念で悔し涙を流したこと
を記憶している。地区代表になったのは、この6年生の時だ。その子供の頃か
らの「野球好き」が私である。テレビで観戦する日々になっている。
私の孫がこれからどんな野球体験をするかは想像もできないが、試合に出て
思い出を作ってもらいたい。孫が試合に出るようになったら、是非見に行きた
いと思っている。翔は日本ハムの中田翔選手のファンだ。憧れの選手がいるこ
とは励みになる。私は「野球好き」の孫の成長を楽しみにしている。
始めるようになったのかはわからない。土・日や祝日は、朝から夕方まで野球
漬けだ。野球だけは嫌ではないらしい。試合ができるまでにはもう少し時間が
かかるが、来年にはできるかもしれない。甘えん坊で寂しがりやの孫だが、
凝り性だ。凝り性は私と同じである。私と孫とは同じ干支で60歳違う。
私の子どもの頃とは全く環境も時代が違う。今は様々なスポーツができる環境
になり、スポーツ科学も進み道具も進化している。しかし、時間的にも金銭的
にも親の負担が大きい。私の世代の親とも、私が親の時代とも全く違う。
少子化が進み子どもが中心の生活となり、両親が働く家庭はごく普通になって
いる。長男の家庭もそうだ。また離婚の増加とともに、片親の家庭も多くなっ
ているのが社会の現状だ。経済的格差社会になっている。便利な社会だが、
大変な時代だと言える。
私の子ども時代を振り返ると、男の子のメインスポーツは、野球とソフトボ
ールだった。草原の空き地でよく遊んでいた。ボール、グローブ、バットさえ
あればよかった。道具を共有し、10人も集まれば三角ベースで試合をしてい
た。小学校の球技大会には、野球があった。野球は4年生からだったと記憶し
ているが。私の楽しみはこの球技大会だった。その活動の様子から子供会の
野球に誘われた。5年生と6年生の2年間は野球漬けだった。私は練習があま
り好きではなく、特にランニングが嫌いだった。しかし、基礎練習は真面目に
やっていたと記憶している。ともかく試合をすることが楽しかった。試合をす
るために野球をやっていた。当時は、各地区で2勝すれば川崎市の大会に出る
ことができた。市の大会で優勝するには、4勝しなければならなかった。
決勝戦は川崎球場で行なわれた。当時の川崎球場は、横浜・DeNAの前身で
ある大洋ホエールズの本拠地で、プロ野球で使われていた。高校生の夢の舞台
が甲子園であるように、川崎の子ども球児の夢の舞台が川崎球場だった。
公式試合での出場は果たすことができなかった。しかし、一度だけ川崎球場で
試合をしたことがある。地区の代表でオール川崎チームでリトルチームと対戦
した時だ。川崎球場のマウンドで投げたのが思い出になっている。記憶に残っ
ている思い出としては、5年生の時に、1回戦で4打数4安打、2回戦で4打
数3安打で、4打席目は3塁強襲安打が3塁手のエラーと判定された。また
その3打席目のレフトオーバーは忘れることはない。ホームランにはならなか
ったが、私にとっては、バットが振り抜けた最高のヒットだった。打った衝撃
を感じない打球と言えばいいのだろう。2年間でただ一度の経験である。この
大会では、準決勝と3位決定戦ともにノーヒットだった。チームも2試合とも
に負けた。6年生の時はエースとして市の大会に出たが、雨の中での試合にな
り、ぬかるんだコンディションのために、大事な場面で外野手のエラーが出て
初戦で敗退した。打たれたからではなく、負け方が残念で悔し涙を流したこと
を記憶している。地区代表になったのは、この6年生の時だ。その子供の頃か
らの「野球好き」が私である。テレビで観戦する日々になっている。
私の孫がこれからどんな野球体験をするかは想像もできないが、試合に出て
思い出を作ってもらいたい。孫が試合に出るようになったら、是非見に行きた
いと思っている。翔は日本ハムの中田翔選手のファンだ。憧れの選手がいるこ
とは励みになる。私は「野球好き」の孫の成長を楽しみにしている。